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第93回  女性が選挙権を得て106年(デンマーク)

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  4月 10 日は歴史的な日だ。戦後すぐの1946年のこの日、日本女性は初めて投票所に足を運んだ。その衆議院議員選挙で、全国から 79 人の女性が立候補し、 39 人が当選した。割合にして8・4%だ。ところが、2021年現在、いまだに女性は9・9%にすぎない。 デンマークの女性が初めて投票所に足を運んだのは1918年だった。立候補した女性 41 人中、当選したのはわずか4人、2・9%。だが100年以上経った今、女性は 40 %! 首相も女性だ。 女性が1人、暗い家の扉を開けて草原を見つめる。ミッテ・クヌートセン監督のドキュメンタリー映画「自由 平等 参政権」(1990)のポスターは、夜明けを迎えつつあるデンマーク女性を描いている。 映画公開から 10 余年経た2002年、私は憧れのフェミニスト監督ミッテに会うためコペンハーゲンの自宅を訪ねた。そのとき頂戴したのがこのポスターだ。先日、偶然ネットでこの映画を観た。 女性に参政権を与える法案が初めて国会に出されたのは1886年 11 月。提案者は平和主義者で知られるフレデリック・バイヤー議員で、後にノーベル平和賞を受賞した。妻のマチルダ・バイヤーは女性解放運動家だった。2人は1871年、女性の権利を求めるデンマーク初の運動体「デンマーク女性ソサイエティ」を創設。会の定期刊行物『女性と社会』は世界最古の女性誌と言われる。 旧来の法文には「女性、子ども、犯罪者は選挙権がない」という表現があった。その文面から女性を削除したのが新法案だったが、「女性は夫を通して政治に参加できる」という意見が大勢を占め、反対多数で否決された。 1887年2回目も否決。1890年3回目。1891年4回目。1893年5回目。1895年6回目。1897年7回目。1903年8回目。1905年9回目。1906年 10 回目。1907年 11 回目。1908年 12 回目。1912年 13 回目。1913年 14 回目。その度、議長が「否決」と木槌を振り下ろす。しかし、ついに1915年、 15 回目にして賛成多数で可決成立。ここまで 29 年かかった。 その間、女性参政権を揶揄する風刺画が出回った。例えば、男性を足蹴にして倒そうとするこわもての女性が描かれ、「私かあなたか、家の主人はどっちだ」と。こうした非難や嘲笑をよそに、女性たちは数々の新組織を創設して

第92回  女のからだは政府のものではない(ポーランド)

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  2019年3月、ワルシャワの「女性の権利センター」を訪れた時、ウシュラ・ノバコウスカ館長から「私たちセンターのものではありませんが、女性の大規模なデモのポスターです」と寄贈された。 シンプルだが強烈な印象を与える女性の顔。上部には「もう、うんざり! 女性蔑視や女性への暴力」。下は「デモだ。女のゼネストだ。2016年 10 月 23 日 15 時、ポーランド共和国下院前に集まれ」。 ポスターは2016年9月、ポーランド国会で妊娠中絶を禁止する法案の審議が始まることに怒った女性たちによって作成された。法案に抗議して、ワルシャワやクラクフなど全国約150の町で黒装束の女たちが広場へと繰り出した。その数 15 万人! 「女を激怒させるな!」「女の地獄は続く」「産む産まないを選ぶ権利は私にある」。その圧倒的数に屈したのか、国会は、法案を賛成 58 、反対352、棄権 18 で取り下げた。女性たちが勝利したかに見えた。 ところが2019年秋、選挙で右派政党「法と正義」が単独過半数を取ると、憲法最高裁に右派判事が任命されて右派が多数派になった。 「法と正義」は、憲法最高裁に判断を任せる戦術に出た。憲法最高裁は、コロナ禍のさなかの2020年 10 月、「胎児に重い障害がある場合の妊娠中絶を許す現行法は違憲」とした。抗議のデモは、ポーランドを超えてヨーロッパ各地に飛び火し、 40 万人を超えた。 ポーランドはカソリックの強い国だ。公表される妊娠中絶件数は年1000件程度と、ヨーロッパ諸国の中で極めて低い。ところが実際は、その150倍以上の女性が国外に出かけて手術している、と女性団体はいう。 憲法最高裁判決から数ケ月後の2021年1月 27 日、ほぼ全ての人工妊娠中絶を禁止する法律が施行された。今後、ポーランド女性は、強姦や母体の命に危険がある場合以外は妊娠中絶が不可能となった。 友人スワヴォーミラ・ヴァルチェフスカ(歴史学者)から聞いたのだが、ポーランドは大国に挟まれた辛苦続きの小国だ。とくに、第二次大戦中のナチスドイツによる大虐殺は記憶に新しい。そんな歴史ゆえに、「耐えに耐えて最後まで愚痴を言わないのがポーランド人」といわれているのだという。 だが、そんなポーランド女性たちも、耐えがたい事態に直面して爆発した。昨年暮れから今年に入っても、ポーランド全土で繰り広げられる抗議デモの

第91回  男性議員と女性議員、多くてもダメ少なくてもダメ(フランス)

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フランスの市民運動団体「 Elles aussi 」(彼女たちも)は2021年の年頭、こう呼びかけた。 「明日、女性に公平な場を! 2020年のコロナパンデミックは、女性がいかに社会的に弱い立場に置かれているかを知らしめた。女性たちは、低賃金・非正規で治療・予防に必要不可欠な職の最前線にいる。2020年は女性が地方議会にほんの少し増えた年でもあった。私たちはこれに満足しない。女性の市長が全体のわずか 21 %ではダメだ。 30 %にしよう」 2020年、フランスは統一地方選だった。フランスの地方の選挙制度は地方によって異なるが、大体は比例代表制による2回投票制だ。1回目で過半数を取った政党がない場合(大体がそうだ)、もう1回投票する。市長選はなく、多数派政党の候補者リストの1番上に載った人が市長になる。 コロナ禍で、2回目の投票日は3月から3カ月も延期された。全国各地で緑の党が大躍進し、女性市長も女性議員も増えた。 パリでは、緑の党と組んだ社会党の候補者リストでトップに載ったアンヌ・イダルゴが市長に再選。2014年、初めて市長となった彼女は2歳の時、フランコの弾圧を逃れた両親に連れられて亡命したスペイン系移民だ。最初の夫との間に2人、2番目の夫との間に1人の子を持つ母親でもある。こういう女性が当選できるのも比例代表制だからこそだ。 2020年の統一地方選で「 Elles aussi 」は「今日の女性市民は明日の市長です」というスローガンを掲げた。パリテ法(男女半々法)から 20 年も経ったのに、1000人以下の小さな自治体はパリテの風が吹かないので業を煮やしたのだ。 今回のポスターは、この「 Elles aussi 」が、パリテ法制定後すぐの2002年、作ったものだ。 青で書かれた言葉を和訳すると、左上から、「市町村議員、県会議員、地方圏議会議員、国民議会議員、元老院議員、大統領」。すべて男性名詞だ。よく見ると、一つひとつの語の後ろに、赤の手書きで女性名詞のための接尾語がつけ足されている。そして、中央部の太字が叫んでいる。それが今回のタイトルだ。 「 Elles aussi 」は、6つの女性運動団体が1992年に連帯して立ち上げた。フランス政府とEUが補助金を出した。当時のスローガンは「国会も地方議会も女性を半分にしよう」。パリテ法に先鞭をつけた。 ひるがえって日本

第90回  世界初のフェミニスト政権(スウェーデン)

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  スウェーデンの男女平等政策が世界のトップを走っていることを疑う人はいない。 特に今から 4 年前の 2016 年のこと、ロベーン首相(北欧 5 カ国で唯一の男性首相)が「私たちは世界初のフェミニスト政府です」とぶち上げたのには、私も目を丸くした。首相はさらに「男女平等は社会変革へのカギです」「男女平等達成のための政策を実行し、あらゆる政策に男女平等の視点を入れます」と宣言した。 実際、国会や内閣はむろん、審議会、委員会、すべての公的組織の構成員がほぼ男女半々となった。地方自治体の首長や管理職の女性の平均賃金が初めて男性を上回った。男女平等大臣は語った。 「 1980 年代から 30 年以上も公的委員会や審議会などにおける構成員の男女平等を進めてきて、やっと実を結んだのです」 その 1980 年代、日本の都議会に当たるストックホルム県議会は「あらゆる仕事に男も女も入っていこう」と呼びかけた。そのとき使われたのが今日のポスターだ。 ピンク地に切り絵をはりつけてある。切り絵は日本や中国だけでなく、北欧でも長い伝統があり、クリスマスツリーや窓の飾りによく使われる。 黄色い三角形は、スウェーデン人の大好きなアイスクリームのコーンのようだ。「ミックス( blandat )が最高!」と叫んでいる。 ここで重要なのは、男女が 3 人ずつ入り混じっていること。しかも、ヘアスタイルや目の形が異なるさまざまな人種。「すべての仕事に女も男も」「ストックホルム県議会 男女平等に向かって」とある。 この後、 90 年代に入ると、スウェーデンは 10 人以上の企業主に男女平等促進行動計画と男女賃金格差調査の提出を義務づけた。男女平等オンブズマンがお目付け役となった。 さて日本。このポスターを作られたころの 80 年代、男女雇用機会均等法ができた。名前は大層立派だが、日本女性はパートや派遣という非正規労働に押し込まれた。 2020 年 4 月の統計を見ると、その非正規労働者が昨年より 97 万人減った。だが「非正規が減った」と喜ぶのは早い。クビを切られたのだ。その 7 割以上は女性だった。新型コロナウイルスの影響と見られていて、その深刻度は、今さらに進んでいる。  2021年1月1日

第89回 ベリット・オースに〝草の根ノーベル平和賞〟(ノルウェー)

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  今年の「人民の平和賞」はノルウェーのベリット・オース(1928年生)に決まった。 この賞は、ノーベル平和賞に対抗した草の根のノーベル平和賞で、スウェーデンのオルストにある平和運動団体が運営する。受賞式は 12 月5日だったが、新型コロナの影響で来年3月6日に延期された。 女性運動家、政治家、平和運動家、社会心理学者、オスロ大学名誉教授。ベリット・オースには、「初の…」が、数えきれないほどついてまわる。 1971年のノルウェー地方選で、オスロ、アスケール、トロンハイム3市は、ノルウェー史上初めて(おそらく世界初)女性議員が男性を上回る議会となった。「男を消せ」キャンペーンの結果だった。 ノルウェーは国会も地方議会も比例代表制選挙。投票用紙には政党が決めた「候補者リスト」が記されているのだが、投票者は名簿の順番を変えることができる。 60 年代まで、どの政党も「候補者リスト」の当選圏(つまり上の方)は男性、下位は女性と決まっていた。彼女は、上位の男性の名前を消して下位の女性を上にあげて当選させるという運動を展開した。 1973年、ベリットは創設に加わった左派社会党の初代党首に。ノルウェー初の女性党首は、クオータ制を政党として初めて取り入れ、選挙で大躍進。他党の模範になった。 73 年から 77 年まで国会議員に。ここで自らの屈辱体験を元に、男性による女性支配構造を「5つの抑圧テクニック」と題して世に出した。社会心理学者の面目躍如。その冊子は北欧中心に世界に広まった。アイスランドの「女のゼネスト」は、この冊子が火種となって燃え上がったのだそうだ。 さらには、アメリカの国際女性の平和ストライキにならってノルウェー平和キャンペーンを設立し、ノルウェー政府の「軍縮委員会」の創設につなげた。スウェーデン、デンマークの市民団体とともに、ノルウェー女性の平和運動を組織化。「人民の平和賞」受賞は、この活動が評価されたのだろう。 私はポケットマネーをはたいて2003年、彼女を日本に招待した。豊中市、名古屋市、武生市(現越前市)、高知市で講演。その全訳「支配者が使う五つの手口」は拙著『ノルウェーを変えた髭のノラ』(明石書店)で読める。 今日のポスターは、ベリットたちが開校した「フェミニスト大学」(ヘードマルク県ローテンで1983年)の宣伝に使われた。 92 歳の闘女にスコール(乾杯)!

第88回  ペンは力なり (ノルウェー)

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  羽根ペンがヒラヒラと揺れ動き、シルエットの女性の口もとからは歌が流れてきそうなポスターだ。IT時代の今日なら動画になって一瞬で世界に流れるのだろうが、これは1986年のことだった。メスマークのピアスが象徴的な「国際フェミニスト・ブックフェア」は、同年6月 21 日から1週間にわたってノルウェーのオスロを中心に展開された。 2年前の1984年6月、イギリスで世界初の国際フェミニスト・ブックフェアが開かれた。会場となったロンドンのコヴェント・ガーデン周辺には、 22 カ国100以上の出版社によってフェミニスト関連の出版物のスタンドが所狭しと立ち並んだ。わずか2日間だったが、参加者が世界から駆けつけて、大成功だった。 熱気と興奮の中、次の候補地としてノルウェーが決まった。1960年代に女性解放運動に火がついた国。 81 年にはグロ・H・ブルントラント( 42 歳)が初の女性の首相に就任した国。ノルウェーには、女性たちのやる気が横溢していた。 オスロのブックフェアでは、多彩なイベントが企画された。展覧会、即売会、ワークショップ、討論会、セミナー、読書会、コンサート、演劇、映画、音楽…。一般読者に加え、作家、翻訳家、出版社、編集者、ジャーナリスト、批評家、印刷業界、デザイナー、販売、司書…と本に関する叡智が集結した。 最も人々の心を打ったセッションは、スペイン、ケニア、南アフリカ、北アイルランド、ウルグアイから作家を招いてのセミナー「作家という危険な職業」だったと記録にある。もの書きの女性が逮捕監禁されたり、村八分にあったことが報告された。リベラルといわれている国でさえも、マイノリティの女性は、著作活動そのものも、著作で聴衆を集めることも、極めて困難だったことが明らかになった。 それでも、古今東西、女性たちは迫害をかいくぐって書き続けた。ものを書くことによって、自らが置かれた第2の性(男中心社会で主体性を奪われた存在である女性)、貧困、抑圧などをはねのけようとした。書くことは生存に欠かせない行為、女性解放への闘いそのものだった。 ブックフェアはノルウェーの後、カナダのモントリオール(1988)、スペインのバルセロナ(1990)、オランダのアムステルダム(1992)、オーストラリアのメルボルン(1994)と続いた。 そういえば、 10 月 27 日から 11 月9日まで読書

第87回  私は金で女性を買わない(アイルランド)

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  アイルランドは、2017年2月、金で性行為を買う人物を罰し、売る側を合法とする法律を制定した。スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、カナダ、フランスに続いて世界6番目の「買春禁止国」となった。 アイルランドといえば「セント・パトリックス・デー」を思い出す。 19 世紀、アイルランド人は母国の飢饉・飢餓・迫害などを逃れて、アメリカにドッと移住した。だからニューヨークにはアイルランド系アメリカ人が多い。私が留学した大学の指導教授もその1人だった。 イギリスに支配された屈辱の歴史は、移住先でも消えなかった。黒人に準ずる差別を受けた。アイリッシュの警察官を嘲笑する映画もあった。だから年1回、3月 17 日はアイルランド人であることを誇り、連帯を見せる日になった。 アイルランドはカソリック教国で、離婚も人口妊娠中絶も最近まで禁止されるなど、女性差別の目立つ国だった。しかし、こうした私の表層的なイメージは、買春禁止法をめぐるアイルランド人の卓越した運動を知って吹っ飛んだ。 国会を動かす力になったのは「赤いライトを消せ」運動である。性暴力根絶団体や子どもの権利擁護団体から政党、労組、農協、私企業まで、なんと 74 団体、160万人をその傘下に集め、ついに買春禁止法を誕生させた。 10 年間の運動を引っ張ったのは、女性差別撤廃や人権擁護の運動家デニース・チャールトン。彼女は、それまでの大戦略をビデオにまとめ、こう語る。 「売買春は国際的巨大産業ですが、真相が見えにくい。そこで、売春サバイバーの証言を聞く作業から始めました。証言の映像は議論の力になります。嘘を暴いたり真実を知らせたりするには映画やポスターなどのアート(芸術)が大事。これをソーシャルメディアで流しました」 法律を制定させて3年。今、アイルランドは、神話撲滅運動に移っている。 神話「売春は他の労働と同じような労働でしょ」 真実「最も危険だとされる仕事よりも売春は 40 倍も死亡率が高く、売春婦の6~8割が暴力や虐待の被害にあっています。そんな仕事は他にはありません」 神話「インターネットでエスコートをしますと言う女性は、独立した実業家でしょ」 真実「組織的犯罪組織と結びついている証拠が数多くあります。独立したビジネスと思わせるように宣伝しているだけです」。 そんなキャンペーン用ポスターの1枚がこれである。  202

第86回  〝買春〟は許されない! (フランス)

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  新型コロナウイルスの蔓延で最も深刻な事態に陥るのは、もともと社会的に不利な立場に立たされていた人たちだ。非正規労働者、移民…なかでも性産業で働かざるをえない人たちの暮らしはいかばかりだろう。 2020年4月、フランスでは、 27 もの市民団体が連名でマクロン大統領や大臣に「売春せざるをえない人たちが政府の緊急経済支援対象から外されないように」との要望書を提出した。この背景には “ 買春 ” 禁止法がある。 2016年、国を二分する長い論争の末、「売春は女性への暴力」とされ、買う側が罰せられることになった。罰金は 47 万円(3750ユーロ)だ。その一方、売春をやめようとする人には資金援助が用意され、不法滞在者には一定期間の滞在許可まで出されることになった。 買春禁止法推進運動を率いたのは、「ネスト・ムーブメント」(避難所運動)という団体だった。1971年創設以来、「売春婦たちとともに売春制度をなくそう、女性へのあらゆる暴力に反対しよう」と、啓発やロビー活動をしてきた。国内に 34 支部を持ち、専従職員 20 人と大勢のボランティアが働く。 今日のポスターは「ネスト・ムーブメント」がかつて企画編集した漫画本『サンドラのために』(1996年刊行)の宣伝に使われた。 物語の主人公は、ドリス(ポスターの左)とサンドラ(本の表紙の女性)の2人だ。 サンドラは 10 代で、小うるさい母親を嫌って家出。ボーイフレンドに人生を捧げようと決めて同棲するが、彼は甘言と暴力を巧みに使い分けてサンドラを売春の道に引きずり込む。 ドリスは暗い過去を封印した女性で、今は夫と息子がいる。サンドラの話を聞き、若い頃を思い出し、サンドラを売春組織から救い出そうと必死になる。 エイズや暴力など深刻なテーマを芸術作品に仕上げて「神業作家」とうたわれるスイスの漫画家デリブが絵を引き受けた。1年間で 14 万部が売れた。「売春への偏見が薄れて理解が進んだ」と大評判をとった。 さて、わが日本。お笑い芸人岡村隆史は、ラジオで自らが買春の常連であると語り「コロナあけたら、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。なぜかと言えば、短期間でお金を稼がないと苦しいですから…だから今我慢しましょう」と公言して、女性団体から激しい抗議を浴びた。 岡村は、NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」のレギュラーである。こんな買春男を

第85回 #SAYHERNAME MARCH 彼女の名前を言おう (アメリカ)

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  アメリカの新型コロナの感染者は440万人、死者は 15 万人を超えた。そんなパンデミック真最中のあちこちで、大勢の市民が集まって「ブラック・ライブズ・マター( Black  Lives Matter )」と叫んでいる。「黒人の命も尊重されるべきだ」という意味で、頭文字を取ってBLMと呼ぶ。 今年5月、ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官に首を押さえ付けられて死亡。「息ができない」という彼の言葉と、生々しい映像とともに、BLM運動は世界に拡散した。 7月初め、偶然BLM運動のホームぺージを訪ねたら、黒人女性のシルエットが目に飛び込んできた。 「『彼女の名前を言おうマーチ』に参加を。 2020年7月4日午後4時、ボストンのヌビアン広場集合。BLM運動に参加して、黒人女性の命を哀悼し、誇り、祝おう」とある。 赤地部分に黒い文字で、無数の女性の名前がびっしりと記されている。「彼女の名前を言おう」運動は、BLM運動と表裏一体で続いてきた。これまで数多くの黒人女性たちも警官に殺されてきたが、男性ほどには騒がれもせず、名前さえ忘れ去られた。それに憤った女たちから「彼女の名前を言おう」運動が生まれた。 ポスターには、黒人女性を表す英語に「 Black Womxn 」が使われている。アメリカに留学した 80 年代、フェミニストの友人から「マリコ、もう Woman という man がある言葉は使わないのよ」と言われたのを思い出した。 懐かしさがこみあげてきた。そうだ、「 History 」は「 Herstory 」に、「 Fireman 」は「 Firefighter 」に。それは、男性中心の言語や文化を変えようというアメリカ女性の知恵と情熱が込められた運動だった。いまだに夫のことを「主人」などと崇める日本に住む私は、すっかり忘れていた。 そもそもBLM運動を世に出したのもアリシア・ガーザという黒人女性である。女性運動家にして作家、全国家事労働者連盟のスタッフだ。 2013年7月、アリシアは、黒人高校生を射殺した被疑者(自警団)が無罪となった事件への抗議をフェイスブックに書き、最後に「黒人の命も尊重されるべきだ」と添えた。それに仲間の女性がハッシュタグをつけて拡散させて、運動に火がついた。 1人の黒人女性が先陣を切った市民運動に、いま白人女性、黒人男性、白人男性も

第84回  コロナに立ち向かうアフリカ女性研究者 (マリ共和国)

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  直火に鍋をのせて料理をする、左手で子どもの手を引き右手で物を運ぶ、子どもと一緒に農作業をする、たきぎや布や食料を頭にのせて運ぶ、掃除をする、食べ物をよそう、膝の上で赤ん坊のおしめを変える…。布で赤ん坊を自分の体にまきつけている女性も多い。男性は、笛を吹いたり太鼓をたたいたり、といい気なものである。 「これ、西アフリカのマリの織物です。これをくれた薬学博士のロキア・サノゴは有名なフェミニストなんです」。 ローマ在住の友人マリア=グラッツィア・ジャンニケッダ(サッサリ大学教授)宅を訪問したときのこと。壁に貼られた一枚をじっと見ていた私に、そう語った。 ロキア・サノゴは1964年マリ生まれで、マリとイタリアの2つの大学で博士号を取得。大学で教えながら、WHOと共同で数々の国際研究に従事する。特に力を入れているのは、女性の性器切除(FGM)、妊産婦や新生児の死亡、不妊、更年期障害など女性に特有の健康問題を解決するために、薬草など伝統的薬剤による処方を取り入れた研究だ。 マリは、男女格差の際立つ世界最貧国のひとつだ。世界経済フォーラム「ジェンダー・ギャップ指数」によると、世界153カ国のうち139位(ちなみに、日本も121位と恥ずかしいほど低い)。 識字率は 33 %前後ときわめて低いが、さらに、女性は男性の半分だという。いわゆる「子ども結婚」が蔓延し、少女の 17 %が 15 歳前に、 52 %が 18 歳前に結婚する。貧しさゆえ親は強制的に娘を結婚させる。結婚する少女・女性たちは性器切除されている。一夫多妻が残っており、子ども結婚は「家事奴隷・性奴隷の隠れ蓑」といわれている。 マリはサハラ砂漠南に広がる半乾燥地域にあり、地球温暖化によって年々農作物の収量が落ちている。それに加えて、アルカイダと関係のあるイスラム過激派武装勢力によって内戦状態にあり、国内難民が激増した。さらに、これでもかとダメージを与えたのは、新型コロナウイルス感染である。 先月、海外メディアからロキア・サノゴ博士の名前が流れてきた。「マダガスカルで採れる植物アルテミシア(ヨモギの一種)で、感染予防と治療に効果が出ました」と共同研究の成果を公表したのだ。先進国の特効薬開発競争とは別の「もうひとつの道」を追い続ける研究者がアフリカにいるのを、私は初めて知った。応援しよう。 2020年7月10日  

第83回  多様な声を受け止める比例代表制 (ベルギー)

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  ベルギーの医療保健水準は世界トップクラスで、コロナ対策も早かった。ところが、コロナによる致死率は世界一。その不名誉な地位に、ベルギー政府は「病院での死亡だけでなく介護施設や地域での感染が疑われる死亡も含めているので、算出方法が異なる」と断じた。 とはいえ、医療従事者のストレスは並大抵ではなさそうだ。5月になって、コロナ治療にあたる大病院を首相(女性)が激励に訪れた。看護師たちは、首相の車が滑り込む道路の両サイドに長い列を組んで立っていた。拍手で迎えるのかと思いきや、全員が次々と車にクルリと背を向けたのだ。 看護師の待遇が悪くなりかねない新法案への「抗議デモ」だった。「政府は私たちの要求に背を向けたでしょ」との看護師組合のコメントが冴えていた。このデモの後、首相は法案について話し合い続行を提案してきたと報道されている。 そんなベルギーを私が訪問したのは1994年だ。九州ぐらいのミニ国家なのに連邦制をとっていて、しかも公用語がフラマン語(オランダ語)、ワロン語(フランス語)とドイツ語の3つもあった。 このポスターは、当時、ベルギー政府の雇用・平等大臣を訪問したときに贈られた。「男女で均等のとれた賃金」と書かれている。男女平等を進めるために施行された「アファーマティブ・アクション(暫定的特別施策)法」の啓発だと大臣秘書が言った。よく見ると、女3人よりも男3人のほうが中央に寄って座っている。重い方(男)が工夫してくれれば平等になりますよ、というわけだ。 アファーマティブ・アクション法のほかにも性差別禁止法があって、性による差別撤廃への強い政治的意思を感じたが、秘書は「国会に女性はわずか9%。EUの顔ですから、もっと増やさなくては」とこぼした。あれから4半世紀。首相は女性、国会議員の4割を女性が占めるまでに増えた。 ベルギーは比例代表制選挙発祥の地。あのドント方式を考案したヴィクトール・ドントはベルギーの数学者であり法学者だ。 多言語、多宗教、多文化の歴史をかかえた国民の多様な意志を政治に反映させるには比例代表制しかない。政権は、選挙後の政党による話し合いで決まる。 連立政権までの話し合いは長く、1年たっても新政権が決まらなかったこともあるという。でも、小選挙区制を土台にした“男性中心・やりたい放題”一強政権より、民主主義度ははるかに上だと私は思う。 2020年6月10日

第82回  意外! スウェーデンのコロナ行政 (北欧理事会)

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  私は長年、北欧5カ国は文化的に常に一枚岩なのだ、と思い込んできた。ところが、である。 新型コロナウイルスのパンデミックが始まった3月中ごろ、ノルウェーの友人から「自宅でテレワークです。ケアサービスが中止になったので、母の世話もしています」とのメールが来た。 その数日後、スウェーデンの友人から、食事を楽しむ人たちでいっぱいのカフェテラス…自宅隔離どこ吹く風の写真が送られてきた。 さて 1 カ月後の 10 万人あたりの死者だが、アイスランド2・9人、デンマーク8・7人、ノルウェー4人、フィンランド4・4人に対して、スウェーデンはなんと 28 ・3人!  スウェーデン政府が言うには、新型コロナウイルス抑制には「ワクチン開発」か「集団免疫(国民の6~7割がウイルスに感染して抗体を持つ)」か、道は2つに1つで、スウェーデンは後者を選んだのだ。 理論的指導者テグネル医師は、「国民の自主性に任せて、病気かなと思ったら休むようにと提案しています。スウェーデンは、病欠手当が補償される歴史が長いので、すぐ休む傾向がある。それに、子どもたちには通学が、大人たちにはレイオフされないことが、心身の健康維持にとって非常に大事なので、だから、私たちはロックダウンをとらないのです」 ポスターは1988年、ノルウェーのオスロで行なわれた壮大な女性の祭「ノルディック・フォーラム」のもの。北欧の女性たちが、男女平等社会づくりへの情報交換をし、女性差別撤廃をいかに実現させるかを話し合った。講演会・討論会・女性だけの交響楽・ジャズ・ロック・演劇・映画…数万人が集結した。1994年はフィンランドのトゥルクで、2014年はスウェーデンのマルメで開催された。 予算も含めてノルディック・フォーラムを下支えするのは、北欧理事会だ。北欧5カ国3地域が閣僚レベルの協議会を開き、政策のすりあわせをする国際機関で設立は1952年。ここから北欧モデルといわれる共通政策が生まれてきた。 さて、世界の流れに逆らって自宅隔離を拒否したスウェーデン・モデルが、何年後かに北欧モデルになるのかどうか。国民の命のかかった政策だけに、行く末が気になる。 2020年5月10・25日  

第81回  130年前にボローニャでトキの声(イタリア)

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  コロナウイルスが猛威をふるうイタリア。3月 30 日時点の感染者は9万7千人超、死者は世界最多の1万779人! 中でも猖獗(しょうけつ)をきわめるボローニャやミラノは、イタリア女性解放運動の祖として名高いアンナ・マリア・モッツォーニ ( 1837~1920 ) と縁の深い土地であることを思い出した。 時は1890年 11 月 16 日(日本の江戸時代末期)。ボローニャにおいてモッツォーニはおそらくイタリアで初めて、フェミニズムに関する大演説をした。演題は「家族、町、国家における女性」。 古色蒼然たるポスターは、デザイン性豊かな現代のものとは趣が異なるが、歴史的演説会を広報するための並々ならぬ力感が伝わってくる。 「ボローニャ市民よ、人間の発展にかかわる最重要テーマを取り上げた、この新企画を評価してくれることを願う」 「今日午後2時半、公証人の場」「入場券 1人 40 チェント」「収益は、女性、貧しい家庭の人々を解放するための社会基金に使われる」「切符は、今日 10 時から 12 時まで、労働者協会(ソチエタ・オペライア:社会主義運動発祥の場)の図書館メインホールで取り扱う」 実は、アンナ・マリア・モッツォーニの名はイタリア人にも長年知られていなかった。それを世に出したのは、1970年代の女性運動家たちだった。 ボローニャの演説では「家では夫や父の支配下にあり、町では納税義務はあっても何の権利もなく、国家には意見を言うこともできない、それが女性である。女性たちよ、参政権を勝ち取ろう」と訴えたと研究者が公表している。 アンナ・マリアはミラノの貴族家庭に生まれて、5歳で全寮制の学校に入れられた。しかし偏狭な教育に我慢できず家に逃げ帰る。後は独学で、ジュセッピ・マッツィーニ、ジョルジュ・サンド、シャルル・フーリエなどを読み、女性の仕事は家事とされていた伝統に抗い、自由・平等を掲げるイタリア統一運動に傾倒していく。 1864年、 27 歳で『イタリア民法における女性とその社会的関係』を出版。 1877年、イタリア女性の参政権を求めて署名運動に立ち上がる。 1879年、ジョン・スチュワート・ミル著『女性の解放』をイタリア語に翻訳し出版。 1881年、女性参政権運動で共和主義者、急進主義者、社会主義者と手を組む。「女性の利益推進同盟」をミラノで創設。そして、こんな言葉を残した

第80回  3月8日は闘う女性の記念日 (ドイツ)

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  3月8日は国際女性デー。女性たちの闘いの歴史をふりかえり、女性であることを祝う日だ。 2年前の2018年、ドイツのベルリン市議会は3月8日を公休日と決めた。ちょうど100年前の1918年、ドイツの女性は参政権を獲得した。これにちなんで、ベルリン市議会与党の社会民主党、左派党、緑の党は祝日と定めたのだった。 そのいにしえのベルリンでつくられたのが、このポスターである(※注)。黒い服を着た裸足の女性が、真っ赤な旗を力いっぱい振って、女性参政権への闘いを呼びかける。 「女性デー。1914年3月8日。女たちに参政権をよこせ。(略)女性は労働者であり、母親であり、市民である。国や地方への納税者である。すべての女たち・働く女たちの基本的人権を求める決意はゆるがない。(略)女たちよ、少女たちよ、集まろう。1914年3月8日、日曜日、午後3時、第9女性議会に」 この歴史的ポスターは反政府的との烙印をおされ、街に貼りだされることはなかった。しかし4年後の1918年になって、第一次世界大戦で敗北したドイツの臨時政府は、女性への参政権を宣言。翌1919年、ワイマール共和国はこれを憲法に明記した。 ポスターに描かれた女性は、闘う女クララ・ツェトキン (Clara Zetkin 、1857~1933 ) がモデルに違いない。クララはドレスデン近くの村に生まれた。ビスマルク政権の弾圧を逃れてスイスやフランスに亡命。帰国後、 35 歳で社会民主党SPDの女性紙『平等』の編集にらつ腕を振るう。1907年、同志たちと第1回社会主義女性大会を立ち上げる。 3年後、デンマークでの第2回大会で「国際女性デー」を提唱。翌1911年3月、世界初の「国際女性デー」には、オーストリア、デンマーク、ドイツ、スイスを中心に、100万人以上がデモに集まった。 その後、反戦思想からたびたび逮捕された。1919年、ワイマール共和国下の新共産党に参加。1920年から 33 年まで国会議員。1933年、ヒトラー政権によって共産党が非合法化されたためソ連に亡命。同年客死。 こんな社会主義カラーのためだろう。日本政府は、性差別に憤る女たちの「国際女性デー」に冷たかった。 しかし1975年、国連が3月8日を国際女性デーと制定してからは変化が…。最近では、官庁主導で「幸せな女性たちの祭り」と命名した、やけに明るく退屈なメッセージが

第79回  34歳女性が首相に選ばれるわけ(フィンランド)

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  昨年 12 月、フィンランドにサンナ・マリン首相が誕生した。この国では女性首相は3人目だが、話題になったのはその若さ! なんと 34 歳。世界最若年の首相だった。 新首相の生い立ちは複雑だ。母親は、アルコール依存症の夫と離婚。同性パートナーと“レインボー・ファミリー”を築き、前夫との子サンナを育てた。一家は貧しくて、大卒は彼女だけだった。 北欧の政治家の多くは、高校や大学内にある政党の青年部に入って政治活動を始める。サンナも 20 代初めに社会民主党青年部で頭角を現した。2008年に、市議選の候補者リストに載った。当選はしなかったが代理議員になった。 代理議員とは、政党中心の比例代表制ならではの制度。議員が育児、病気、教育研修などで休暇を取った時、ただちに議員として職務を代行する、いわばピンチヒッター議員だ。 2012年に市議会議員に初当選した時、サンナはまだ大学院生だった。2014年に社会民主党の第2副代表となり、翌年には国会議員選挙に当選。2017年に党第 1 副代表、2019年、国会議員に再選。連立政権のアンティ・リンネ首相(社会民主党代表)が辞任したため、同党第 1 副代表だった彼女が首相に選出された。 このポスターは2015年にヘルシンキにある「フィンランド女性会議」から贈られたもので、大勢の男女が発する言葉をアートに仕立てている。 言葉の一部を紹介すると「母親が国を指揮したら、世界はよくなる」「今日も明日もフェミニズムとシスターフッドを」「自由とシスターフッドこそ社会の基盤」「フェミニズムは男にこそ薦めたい」…。 同会議は男女平等をめざす女性運動体として1911年に創設され、女性参政権100周年にあたる2006年から、「人口の 51 %は女なのだから、国会の101人を女にしよう」というキャンペーンを続けてきた。今日のフィンランドは、国会議員200人のうち女性が 94 人、 47 %だから、ほぼ目標達成だ。 それにしても、裕福とはいえない家庭に育った若い女性が、一国のかじ取り役になれたのはなぜかと考えてみると、それは、比例代表制選挙の国だからである。一方、世襲の男性議員が 10 年近くも首相の座に居座り続けるわがニッポンは、小選挙区制の国。私は、比例代表制の国に強くひかれる。 2020年2月10日  

第78回  女は黙らない!(南アフリカ)

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  ノルウェー初の女性の政党党首ベリット・オースの呼びかけで、 2003 年夏、国際会議「世界の勇気ある女たち」が開かれた。世界各国から反戦運動家や女性運動家がはせ参じた。南アフリカからは、プレグス・ガーヴェンダー( 1960 ~)がやってきて、こんな発言をした。 「昨年、私は政府予算案に反対して国会議員を辞めました。若い女性を中心に何百万人もが苦しむ HIV /エイズに予算を回さずに武器に使うなんて許せません。しかも武器の犠牲者は女、子どもたちですよ。でも、反対は私1人でした」 私は南アについて深く知らなかったので、「あのアフリカ国民会議 ANC に反対したのですか?」と聞くと、「そうです。反アパルトヘイト運動で国家に抵抗し、次は、自らの政党に抵抗しなければいけなくなったのです」 南アのアパルトヘイトを合法的に許してきたのは、小選挙区制選挙による一党独裁政治だった。 1994 年、小選挙区制に代わる比例代表制の下で初の “ 全人種選挙 ” が行われて、 ANC が圧勝。ネルソン・マンデラが大統領に就任した。クオータ制が実行されたのでプレグス・ガーヴェンダーも国会議員に選ばれた。 99 年に再選。フェミニズムに根ざした彼女の発言は、国を越えて知られるようになった。 今日のポスターは、そのプレグスが 20 代の頃、先輩諸姉 8 人とともに創刊した雑誌『 SPEAK (声をあげよ)』の編集部が作った。 これがいつ作られたかは不明だが、女性への暴力反対キャンペーンだったことは旗からわかる。スカートの絵柄には「(殴ったら)ただではおかないぞ」のプラカードも見える。 長年、アパルトヘイトによる人種や階級で分断されてきた南ア。女たちは、家でも家父長制で痛めつけられ、幾重もの抑圧を耐え忍んできた。そしてついに、女による女のための女の雑誌『 SPEAK 』が 1982 年、ダーバンで産声をあげた。 1993 、 94 年は、生まれて初めて投票する非白人、とりわけ字を読めない女たちへの選挙指南に力を入れて、投票率アップに貢献した。 2020年1月1日  

第77回  家でボクシングをするな!(ポーランド)

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  めざす「女性の権利センター」は、ワルシャワ駅から 15 分ほど歩いた閑静な通りにあった。天秤にメスとオスがアレンジされたロゴマークがドアについていたので、一目で「ここだ」とわかった。2019年3月のことだった。 館長のウシュラ・ノバコウスカは、話題の大きなポスターを見せてくれた。 子どもを抱えておびえる女性。目のふちは黒く、眉毛には縫ったような小さな傷跡。うしろにボンヤリ見えるのは、ボクシングのリングのようだ。 「『家庭はリングじゃない。暴力をやめよ』と書かれています。2002年、2003年、私たちは、夫や恋人からの暴力を根絶するために、大々的なキャンペーンを打ちました。目的は、家庭内暴力の犯罪性を広く知らせること、暴力の被害者を守れるような法律に改正することでした」 ポスターだけでなく動画やハガキも作った。動画には、当時の大統領や首相や人気ボクサーが登場して、広報に一役買ってくれた。 長い共産党独裁から抜け出たポーランドが、EU加盟を果たしたのは2004年だ。加盟申請は1990年代に始まって、2003年の国民投票では 77 %以上が「EU加盟イエス」。 政府はEUの政策にあわせるために、男女平等に関しても国内法を改正する必要に迫られていた。女性の権利センターは、法務大臣あてのハガキ作戦を展開した。ハガキの表は、このポスターの写真。裏にはこう書かれていた。 「ポーランドでは、女・子どもの3分の1が家庭内暴力の被害者です。命を守りたかったら、女性と子どもたちは家を出るしかありません。ポーランドの法律は、被害者を守ってくれません。家を出るべきは犯罪者であって、被害者ではないはずです。加害者を家から追い出す命令、法廷審理の迅速化、被害者への無料の法的支援を法律で定めてください」 女性の権利センターには、「キャンペーン」のほか、「支援」「教育・研修」「法律」の4部門がある。性暴力被害者への法的アドバイスやカウンセラーの紹介、警察署・裁判所・病院への付きそい、シェルターへの移送…。法律専門家、ソーシャルワーカー、警察官などには、女性問題の研修をする。サバイバーで構成する劇団の公演は、大人気を博している。 だが、ポーランドは今、ポピュリズムの嵐に見舞われている。この 10 月の選挙では、EU懐疑派であり、カトリックに基づく反リベラル政党「法と正義」が単独過半数を獲得した。ポ

第76回  暴力と無縁なのが真の男(ホワイトリボン運動)

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  1989年 12 月6日、カナダ・ケベック州。「俺はフェミニストが大嫌いだ!」 男はこう叫びながら、ライフルとナイフを持ってモントリオール理工科大学に侵入し、教室の女子大生のみ 14 人を銃殺した。次に廊下に出て女子大生ばかり何人にも重傷を負わせ、そのあげくに自殺した。  後にわかったことだが、男の父親は常日ごろから暴力的で、「男性と同等になろうとする女性は男性の利益の侵害者だ」が口癖だった。 7歳のころ母親はそのDV夫と離婚したが、植え付けられた心の傷は癒えなかったのだろう。 襲撃事件2年後の1991年、カナダ男性3人がトロントで「女性への暴力を許さない男たちの運動」を立ち上げた。毎年、 11 月 25 日から事件のあった 12 月6日までをキャンペーン期間とした。 シンボルは、ホワイトリボン。白いリボンなら、Tシャツの切れ端でも簡単に作れるからだ。こうして、“暴力とは無縁の男らしさ”を広める運動は始まった。 「ホワイトリボン運動」は、まず北欧に伝播してから、世界 60 カ国に広まった。日本も2016年に仲間入りした。 私がオーストリアのウィーンにある「ホワイトリボン運動」を訪問したのは2003年だった。 カーリーヘアのロメオは、奥から縦1㍍、横 70 ㌢ほどの大きなポスター4枚を出してきた。オーストリアのレストラン、公衆トイレ、駅、広場に貼りめぐらされ、同時に、新聞や雑誌などで報道されたという。 4枚とも男性の後ろ姿だったが、それは「全ての男性の問題であることを知ってほしかったから」だそうだ。 1枚目は、暴力息子に悩んでいる父親の後ろ姿。2枚目は、妻を殴打する友人をうとましく思う男性の後ろ姿。3枚目は、母親に暴力をふるう父親を怖がる息子の後ろ姿。そして4枚目が今日のポスターだ。「暴力を嫌う、信頼できる同性の友人がほしい」と男性は言う。白いリボンの横に書かれたドイツ語は「暴力を拒否する男性、ホワイトリボンをつける男性」。 ロメオは、私に4枚のポスターを手渡しながら言った。 「先日、人気サッカー選手や有名アーチストが『モデルになります』と承諾してくれました。次のキャンペーンは正面を向いた男性です。きっと、あっという間に取られてしまうでしょうね。そうしたら、日本のあなたに差し上げられませんね」  2019年11月10日

第75回  移民たちはまず地方選挙権を闘い取った(ノルウェー)

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  9月、ノルウェーの統一地方選を取材するためにオスロへ飛んだ。オスロ市の保守党は市長候補にパキスタン系の女性弁護士をたてて政権奪還をねらっていた。現在のオスロ副市長はスリランカ出身の労働党の女性だし、環境問題の最高責任者は緑の党のベトナム系女性だ。多様な候補者群の舌戦は、まるでオリンピックのようだ。 移民女性の政治動向を知りたくて、少数派女性のためのNGO「ミラ・センター」に行った。アジア・アフリカ系女性たちが仕事にいそしんでいた。 センターは 30 年前、パキスタン系ノルウェー人のファーフラ・サリミと友人たちがポケットマネーで立ち上げた。移民の彼女たちは、大学を卒業しても、これぞという仕事にありつけない。そこで、「マイノリティ女性の権利拡充のために行動を起こさなくては」と、設立した。 70 年代までは、さしものノルウェーでも移民に選挙権を与えなかった。定住した移民たちは「移民の選挙権獲得は、ノルウェー社会の民主主義のためだ」と訴えた。その結果、3年以上ノルウェーに住み、かつ永住権を持つ移民たちに、地方議会議員選挙権が与えられた。1983年のことだった。 ファーフラ・サリミはいう。「国政の選挙権までは認められませんでしたが、地方議員に立候補する権利、地方議員を選ぶ権利は、私たち移民の力で勝ち取ったものです」 ところが、移民の投票率は上がらない。投票のやり方がわからないという人が大勢いたのだ。センターは、マイノリティ女性を対象に選挙のノウハウを伝授する運動を始めた。路上にテーブルを広げて、多言語のチラシを並べ、通行人と対話した。移民の多い地方都市にも出向いた。投票率が上がりはじめた。 政党にも働きかけた。当時の政権党も、保守党(現首相の党、当時野党)も好意的に受けとめた。センターの活動に公的予算がつき、広いオフィスで7人の専従職員が働くまでに成長した。 日本と違ってノルウェーでは、政権を批判する団体であろうと、事と次第によっては公的補助金が出る。まして、説得力のある主張には政治が応える。帰り際、ファーフラの言葉が私の胸につきささった。 「これは 30 周年を祝うポスターです。でも 30 年の闘いで、イスラム女性への偏見や雇用における人種差別がノルウェーから消えたわけではない。日本における韓国人の扱われかたを本で読みましたが、多数派の日本人には、差別解消の責務があると

第74回 「もっと女性議員を」から「もっと女性市長を」へ(ノルウェー)

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  ノルウェーの統一地方選は4年に1度、9月の第1か第2月曜と法で決まっている。今年は9月9日だ。今回、市議会(日本のような市区町村の区別はない)に立候補したのは5万4254人。うち女性は2万3258人で、 43 %にのぼる。 ノルウェーでは国政選挙も地方選挙も比例代表制だ。投票日の1年も前に、それぞれの選挙区の政党は「候補者リスト」の案を作りはじめる。会議を経て決定された「リスト」は、選挙のある年の3月に、選挙管理委員会に届けられる。 その頃には「リスト」がメディアにのり、誰がどの党から出るかは周知の事実となる。選挙期間もなく、候補者個人のポスターも選挙事務所も、鬱陶しい宣伝カーもない。あるのは、各政党の候補者が一堂に会しての政策論争だ。 首長も地方選で決まる。選挙後、最多数を取った政党の「リスト」のトップに載っている人が通常、市長となる。だから「リスト」の1番に誰を載せるかをめぐって党内でもめることもある。 この地方選に向けて、 60 年代から女性議員を増やす超党派の運動「女性キャンペーン」が行なわれてきた。 今日のポスターは、2003年のものだ。よく見ると、女性の顔は、小さな×で描かれている。顔の下にある赤地の白抜き文字は「女性に×印を!」。黒字は「市長の 85 %、市議会の 66 %は男性です。でも、あなたはそれを投票所で変えられます」 ノルウェーの有権者は、支持する政党の「リスト」(=投票用紙)を1枚選んで、それを投票箱に入れる。さらに「リスト」の順番が気に入らない場合、候補者名の横の空欄に×印をつけると、その候補者の票が加算されて順位が上がるようになっている。 16 年前、女性候補に × 印をつけて「女性議員を増やそう」としたのだ(後に方式がちょっと変わったが、ここでは省く)。 こうして女性議員が増えてきた昨今、運動は「もっと女性の市長を」にシフトしてきた。1年半前の2018年3月、総務大臣はこう力説した。 「2015年の統一選で、全市議の約 40 %は女性となりましたが、428市長のうち女性は123人、わずか 28 %です。政党は『リスト』の1番にもっと女性を載せるように」 ひるがえって日本。市長どころか、地方議会の5つに1つが女性議員の誰もいない「女性ゼロ議会」である(朝日デジタル2018年 11 月 18 日、統一地方選前の調査)。 2019年9月

第73回  「女たちのヨーロッパ」の時代到来(ドイツ)

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  7月 16 日、EU(欧州連合)の議会は、欧州委員会の委員長にウルズラ・フォン・デア・ライエンを承認した。 欧州委員会はEUの行政府で、委員長は国でいえば首相。EUは 60 歳の誕生日を迎えて、初めて行政のトップに女性を選んだ。しかし、EU議会の現議員747人のうち賛成は383人。9票差の辛勝だった。 フォン・デア・ライエンは、EU議会で最多議席数を持つ国ドイツのCDUキリスト教民主党の国防大臣。メルケル首相の右腕とも言われた。EU議会では最大会派である中道右派に所属する。しかも、5月のEU議会選では女性がこれまでで最高の 41 %となって、男女平等の流れが加速されている。 それなのに、一時は「否認か」というニュースも流れた。明快に反対を公言したのは、EU議会で 10 %を占める「緑」会派の共同代表であるスカ・ケラー議員だった。 ドイツ選出の「緑」会派で、ドイツのEU議会選ではCDUに次いで多くの票を獲得した。彼女は「フォン・デア・ライエンの政策を吟味した結果、気候変動の問題について何ら具体的提案をしておらず、落胆した」と述べた。 EU議会の第二党である中道左派も彼女に批判的だった。そこに属するSPDドイツ社民党は、ドイツ国内ではCDUと大連立を組んでいるので、CDUから「反対なら国内での連立を解消する」とけん制されたという。 私が、EU選挙を取材したのは1999年のことだった。ベルリンの街には、この「ヨーロッパに、われら女たちを」という巨大なポスターがあちこちに貼り出されていた。当時はシュレーダー首相のSPDが政権を握っていて、女性議員を増やすことに熱心だった。 EU議会議員は、加盟国の人口比で定数が配分され、選挙は各国の直接投票で行われる。完全な比例代表制なので、有権者は政党を選ぶ。イギリスのような小選挙区制の国でも、EU議会選だけは比例代表制で行なわなければならない。 あれから 20 年、EUの比例代表制選挙で女性議員は確実に増えて、ついに4割を突破した。当然ながら「女たちのヨーロッパ」の時代到来だ。 7人の子の母であるフォン・デア・ライエンが、どんな公的育児政策を進めるのか、男女賃金格差の是正にどう励むのか、見ものだ。明確なやる気を見せなければ、他党の女性から指弾のつぶてが飛んでくるだろう。 2019年8月10・25日

第72回  女たちよ「不可能」を要求せよ(デンマーク)

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  この6月、デンマークで、中道左派が政権を奪い返した。現首相を擁する保守系の自由党は票を減らさなかったが、閣外協力の極右政党が大敗した。その結果、社会民主党を中心とする左派ブロックが勝ってしまったのだ。 社会民主党のメッテ・フレデリクセン党首が、この国で2人目の女性首相になる予定だ。1977年生まれ。労働組合LOに勤務後、 23 歳で国会議員に初当選した。 勝利の鍵は、社会民主党が、難民政策を厳格な方向に舵を切ったことのようだ。社会民主党はイスラム女性がまとうブルカやニカブ禁止に賛成。移民地区を「ゲットー」と呼んで犯罪取り締まりを強化したいわゆる「ゲットー・プラン」にも、難民の所持品没収法にも、賛成。 党首の勝利宣言をネットで見ていたら、「女たちよ、現実的であれ、不可能なことを要求せよ」という昔のスローガンが頭に浮かんできた。 ちょうど彼女が生まれた頃、デンマークでは、レッド・ストッキングという女性解放団体が一世を風靡していた。「個人の問題は政治の問題」と叫び、女性を縛る文化の徹底廃絶を訴えた。意表をつくデモンストレーションを放ってはそのたびに社会を驚かせた。 そのレッド・ストッキングが作ったポスターの一つがこれだ。一番上に「女たちよ」、次に「現実的であれ」、デモ隊の上には、「不可能なことを要求せよ」。 作成年は書かれていないが、オーデンセの女性図書館からポスターを譲り受けたとき、「1977年から1978年頃のもの」と聞いた。 このスローガンは何を意味するのか。「現実主義者であると同時に、不可能と思われることにも挑戦しろ」とも取れるし、「この現実を見よ、不可能なことを要求するしかないのだ」とも取れる。女性党首から私は前者を想起したのだが、レッド・ストッキングの女性たちの意図は後者だったに違いない。 そもそも、このスローガンは1968年のパリ5月革命で有名になった壁の落書きだ。大学生や高校生が中心になって反体制、反権威の一大蜂起となった。大学閉鎖、工場封鎖、カルチェラタン占拠、交通マヒ。スト参加者は1000万人に及び、ドゴール大統領退陣につながった。 さて今のデンマーク政界だが、社会民主党が連立を組もうとしている左派政党はすべて、厳格な移民難民政策に反対している。しかも社会民主党を除く左派政党は大きく支持を伸ばした。現右寄り政権の自由党との大連立か、左派連立か…かた

第71回  今あらためて「妊娠中絶権は人権」(フランス)

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  この5月、アメリカ合衆国のアラバマ州は妊娠中絶禁止法を成立させた。 施行されると、強姦犯に妊娠させられた少女であっても、中絶したなら、少女も医師も逮捕されるというのだ。しかも今、似たような州法案が次々に提出されている。 「1973年の最高裁判決:ロー対ウェード裁判」によって、いかなる州であっても妊娠中絶ができるはずなのに、キリスト教福音派などは、「中絶はアメリカのホロコーストだ」と悪態をついてきた。 その筋から支持されるトランプ大統領も、連邦最高裁に保守派判事を指名し、「最高裁判決を葬る時が来た」とばかりに中絶反対派組織に秋波を送っている。 ここに紹介するポスターは、2000年に作成されたフランスの「ヴェイユ法 25 周年記念ポスター」である。「ヴェイユ法」は、1975年、ジスカール・デスタン大統領時代の厚生大臣シモーヌ・ヴェイユがつくった。これによってカトリックの国フランスの女性は、長年の悪夢からやっと解放された。 この時、宗教・医学界などから猛反対の火の手が上がった。しかしフランス女性たちは堕胎罪に、「ノン」の嵐で対抗した。 運動の中心は1971年の「343人宣言」だった。哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワール、女優カトリーヌ・ドヌーヴ、女性運動家ジゼル・アリミなど343人が「わたしも中絶しました」と告白した。 翌 72 年、強姦で妊娠させられた 16 歳の少女が母親や施術師とともに堕胎罪で逮捕されるに及んで、議論は沸騰点に達した。 厚生大臣シモーヌ・ヴェイユは、男性が 98 %の国会に、妊娠中絶合法化法案を提出してこう訴えた。 「自ら進んで中絶をしようと思う女性は一人もいません。女たちの話を聞けば、常に悲劇だとわかります。中絶とは常に深刻な事態なのです。堕胎罪のあるこの国で、毎年 30 万件もの中絶が非合法に行われている事実に目を背けてはなりません」 ヴェイユは国会で、「焼却炉に子どもを投げ込むようなものだ」と罵倒された。国会前では牧師など反対派のデモ、自宅や車にナチスの「カギ十字」の落書き…。 ヴェイユはユダヤ人で、一家は強制収容所に送られ、両親も兄弟も惨殺された。生き残った彼女は猛勉強の末に判事となった。その不屈の魂と弁舌の力で、合法化法を賛成多数で成立させた。 「中絶は権利だ ヴェイユ法から 25 年」と書かれたポスターを作ったのは、フランス家族計画運動

第70回 〝男の国〟に抗う女性活動家たち(ハンガリー)

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  2019年3月、ハンガリーのブダペスト。ドナウ川東岸にある「中央ヨーロッパ大学」を訪ねた。アジア・アフリカ系、アラブ系、ヨーロッパ系…多彩な学生たちが行きかう国際色あふれる大学だった。構内で、市民運動団体が一堂に会して活動を披露するイベントをしていた。 吹き抜け天井の建物の一角に、「ヨーロッパ・ウィメンズ・ロビー」のレーカ・サフラニがいた。EUの男女平等政策をハンガリーに浸透させる運動をしている。ハンガリー紙幣を大写しにしたポスターが目に飛び込んできた。 「傑出した女性がこんなに大勢いるのに、紙幣は全て男性。これがハンガリーです」 ポスターの左側は本物の紙幣。右側は想像上の紙幣だ。よく見ると、右側の金額はすべて左側の8掛けではないか。ポスターは、「女性の賃金は男性の賃金の 80 %にすぎない」と語りかけているのだ。 ハンガリー史に名を残す女性活動家の筆頭といえば、右側一番上の400フォリント紙幣のロージカ・シュヴィンメルだ。 1877年、ユダヤ人家庭に生まれ、簿記をしながら貧しい一家を支えた。 20 代で「全国女性事務員の会」と「ハンガリーフェミニスト協会」を創設し、 30 代で「国際女性参政権連盟」の役員、フェミニスト誌『女性』の編集委員となる。 その後、新聞社のロンドン特派員にして、国際女性参政権連盟の広報部長。第一次大戦勃発に憤り、渡米してウィルソン大統領に停戦のための中立国からなる平和調停会議開催を直談判した。「女性平和党」を創設。 1918年の祖国独立後、スイス大使になるが、共産党政権ができると党を批判した罪で市民権はく奪・国外渡航禁止処分。ウィーンに逃亡してアメリカへ再上陸するが「ボルシェビキのスパイ」と誹謗中傷される。損害賠償訴訟を起こしたものの、最高裁で敗訴。めげずに女性と平和にまっしぐら。第二次大戦後、ノーベル平和賞候補と言われたが、1948年に死去した。 帰国前夜、「現代のロージカ」アントニア・バロウズと会った。共産主義体制崩壊後の女性運動をけん引したフェミニストだ。 舌鋒は鋭かった。 「若者の半数は絶望して国外に出ています。首相は、『子どもを4人以上産んだ女性を生涯無税にする』と言い出した。トランプより先に移民排斥のため国境に壁を造って人口流入にとどめを刺しておいて、ですよ。政府はフェミニスト嫌い。ジェンダーを教える学科の予算をカットし、教

第69回  (z)r‘anaはDVを一瞬でわからせる(チェコ)

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  2019年3月中旬、チェコのプラハ。 私が訪ねた「プロフェム」という調査・相談・企画を手がける女性団体は、ドナウ河南東の住宅地区にあった。アメリカからのインターンも含めて 10 人ほどの女性が、広く明るい部屋でパソコンに向かっていた。 広報担当のエヴァ・ミヒャルコバは、 10 年ほど前の3枚シリーズの傑作ポスターを探し出してくれた。 それは、DVの深刻さを一瞬でわからせる強烈なインパクトがあった。1枚目は、右目の赤いアザを隠そうとする女性。2枚目は子どもへの被害、3枚目はDVの神話の過ちを伝えたもので、作成は、芸術デザイン専門学校の学生たちだった。 今回は1枚目を解説しよう。 「下に書かれた『ズ ラーナ』というチェコ語が理解できると、もっとハッとしますよ。少し難しいのですが英訳してみますね」 カッコでくくられている「Z」は「ズ」と読む。カッコをはずした単語「ズ ラーナ」は、「朝に」とか「朝から」という意味で、ズのない「ラーナ」は「殴打」という意味だ。「ズ ラーナ」の「ズ」は弱く発音されるため、「ズ ラーナ」はチェコ人には「ラーナ」と聞こえるのだという。 「『ズ ラーナ』という日常に『暴力』を潜り込ませたのです。朝の出勤前でしょうか、女性は夫から殴られた右目のクマをサングラスで隠そうとしている。首にまかれた太い鉄の鎖はDVの恐ろしさの象徴です」 「ズ ラーナ」の下には、ごく小さな文字で「DV被害者の 92 ~ 98 %は女性」とある。 チェコは2004年にEUに加盟した。以来、EUの男女平等政策を取り入れてくれるものと女性たちは期待したが、政府は動かない。DV根絶への最も優れた国際法規といわれる「イスタンブール条約」(2014年発効)を、いまだ批准しようとしない。だから民間の女性団体が目を光らせ、圧力をかけ続けているのである。 「今のチェコはEUに懐疑的なポピュリストが政権を握っています。この状況下でプロフェムが存在できるのは、EUやノルウェー政府(EU非加盟)の継続的な財政支援のおかげなのです。でも、自慢したいこともあります。チェコの初代大統領トマーシュを知っていますか?」 トマーシュは貧しい荷車引きの息子だったが、哲学の大学教授から国会議員になった人物で、最高額のお札に印刷されているチェコの聖徳太子だ。 「彼は女性差別を嫌悪し、1920年に憲法に女性参政権も含

第68回  女たちよ あなたの権利を行使しなさい(フランス)

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3月8日は国際女性デー。女性が女性であることを喜び、女性差別の撤廃を誓う日だ。 このポスターは、1991年の国際女性デーに向けてフランス社会党がつくった。線描の顔は、ジャクソン・ポロックの描く抽象画のようだ。 今では国連も祝う国際女性デーだが、かつては社会主義国の行事とされて、資本主義国は敬遠した。しかし、首相付女性権利担当大臣のイヴェット・ルーディは、女性の権利をたたえる日を、国をあげて大々的に祝うべきだとミッテラン大統領に提案した。1982年のことだ。 「社会党の女性政治家の鑑」と仰がれる、そのイヴェット・ルーディ元大臣に私がインタビューしたのは、2003年夏だった。 日本では衆院選が終わったばかりで、480議席中女性は 35 人、7%という惨状だった。同じ頃、フランスは「公選職への女性と男性の平等なアクセスを促進する法律」を制定して世界を驚かせた。政党に候補者を男女半々とするよう義務づける法律で、いわゆる「パリテ選挙法」と呼ばれる。「候補者を男女同数にしない政党は政党助成金が減額される」といった、具体的罰則まで盛り込まれている。 イヴェット・ルーディに、闘いかたを聞いた。 彼女のモットーは、「女性の権利を確実にするには女性が議会に出ること」。「だから、大勢の女性を議会に送るため、うんざりするほど長い間、クオータ制の運動をしてきた」と、苦笑いしながら話してくれた。 彼女は1982年、地方選の候補者リストについて、男も女も全候補者の 75 %を越えてはならないという、いわゆるクオータ法を成立させた。ところが、そのクオータ法が憲法院にかけられ「違憲」に。以来、クオータ制導入運動は何年間も足踏み状態を味わった。 しかし、彼女はあきらめなかった。「パリテのための 10 人宣言」を1996年、週刊誌『レクスプレス』のフロントページに載せた。「政党は、男女同数議会をめざすためにクオータ制を導入すべきだ。それには憲法改正が必要である」。こう宣言したのだ。 それを機に白熱した論戦が展開され、同年の総選挙で社会党は、国会議員候補 30 %を女性にして大躍進。首相は、男女同数議会をつくるための憲法改正を公約し、1999年、パリテ(男女同数)をうたった憲法を実現させた。「パリテ選挙法」が成立したのはその翌年だ。 彼女は私に言った。 「議論する、書く、訴える…とにかく粘り強く続けること

第67回  私のからだ、私の権利、私の一票!(ノルウェー)

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  昨夜、ノルウェーからニュース2つ。 1つは少数与党だった保守連立政権にキリスト教民主党が加わって多数派の新政権になった。もう1つは、マイナス 15 度の寒空のもと、その新政権に抗議する女性ばかり200人ほどのデモ。 「現政権はキリスト教民主党を入れるために『妊娠中絶を制限する法改正』で取引した。私のからだ、私の権利、が脅かされている! 秋の選挙では容赦しない!」 このニュースで、 40 年前の国際女性デーへの参加を呼びかけたポスターを思い出した。 熱気あふれるオレンジと黄色、怒りの鉄拳メスマーク、「妊娠中絶の自由を!新中絶法はまやかしだ。もっと安く入れる保育所を!女の職場を奪うな!」の太い文字。 60 年代まで、妊娠中絶は、ノルウェーでは違法だった。 出産が学校中のスキャンダルとなって退学させられた 10 代の少女。在学中に妊娠がわかり海外で中絶手術をしたのち、罪悪感から自殺した高校生。娘の妊娠を知った母親がハンガーで中絶をしたため妊娠のできない身体にされた若い女性 … 。 1964年、妊娠中絶の新しい法律が施行された。医学的に必要だったり、犯罪の被害者だったりした場合、夫の承諾があるケースに限って、医師2人が中絶の是非を判定した。これに対して、「なぜ医師2人に女性の未来をゆだねるのか」との怒りが噴出し始めた。 70 年代になると、町に繰り出して声を上げる女たちが増えた。「産む、産まないは女性自身が決めることだ!」。中絶合法化をすすめる女性団体がいくつも生まれた。 労働党と左派社会党に属する医師や医療保健専門家たちは、妊娠中絶合法化をすすめる団体を創った。のちにノルウェー初の女性首相となった医師グロ・ハーレム・ブルントラントは、その代表だった。 一方、キリスト教民主党を中心にした中絶反対派も勢いづいた。「彼女らは危険だ。望まれない人を死に追いやったナチと同じだ」とまで言った。 1977年の国政選挙は、妊娠中絶の是非が争点になり、中絶合法化を唱えた労働党と左派社会党が勝った。翌1978年、国会で妊娠中絶は合法となった。 2019年秋はノルウェーの統一地方選だ。「私のからだ、私の権利」とデモをした女たちの声は、どう反映されるだろうか。  2019年2月10日