投稿

11月, 2022の投稿を表示しています

第113回 ユーモアにくるまれた怒りの芸術(ノルウェー)

イメージ
  「ノルウェーに行ってみたい」という人たちに押されて、「男女平等の母国を見に行くツアー」を企画した。20人の視察団に最も強烈な印象を与えた場所が、ノルウェー国立女性博物館だった。20年ほど前になる。 「カミラ・コレットの笑い:女性史150年」という特別展が催されていた。女性が無権利だった19世紀から、男女平等に近づいた現代までのノルウェー女性の150年を再現する芸術群だった。女性芸術家たちが創った19世紀のノルウェー家庭の光景が評判を呼んでいた。 床に這いつくばって、鍋から床に吹きこぼれる煮汁を拭く薄汚れた女性の人形。天井から黒い鉄の大きな重りがぶら下がっている。それには「女というものは何もいいことを成さない」とある。北欧に影響を与えた神学者マルティン・ルターの言葉だという。 タイトルのカミラ・コレットは、元祖フェミニスト小説家。20代で結婚したが、夫が死んで子ども4人が残った。家を売り、3人を里子に出したが、それでも貧乏から抜け出せない。そこで、かの有名な『知事の娘』を出版した。当初は匿名だったそうだ。 ■ 今日のポスターは、博物館の売店で見つけた。「そして神は女性をつくった:女性のからだと理想の美しさ」と題された芸術作品群が、全国巡回展をした時のものだ。博物館管理人のイングン・オーステブルによると、「下着から上着まで、ヘアから靴まで、女性を縛るファッションの数々が『ユーモアにくるまれた怒り』で表現されています」。 ピンクのトルソー(胴体のみの彫刻)は、博物館のあるコングスヴィンゲル市在住のテキスタイル彫刻家シッセル・モーがつくった。 女性像といえば、昔から胸と性器を隠した「恥じらいのポーズ」が定番だ。フィレンツェ・ウッフィッツィ美術館にあるボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』しかり。一方、ポスターの女性像は腰のくびれがないずん胴で、ヒップは小さく、胸も性器もバッチリだ。 かの神学者マルティン・ルターは「男のヒップは小さい。それゆえ賢い。女のヒップは大きい。だから家にじっとすわっている仕事に向いている」などという超非科学的な言葉を残しているそうだ。 ■ カーリ・ヤコブソン館長の「今日の、当たり前と思っている権利は、過去の無名の女性たちの闘いの末にあるのです。それを知らせるために、この博物館はあります」が、心にしみる。1995年に開館。198

第112回 からだは自由だ!(フランス)

イメージ
  高校教員だった頃、1人の生徒が妊娠した。妊娠中絶を選ぶという。相談に乗っていた私は、ひどく狼狽した。一緒に悩んだ。手術なら一刻も早くしないと…。手術費用のカンパが密かに始まった。 あれから40年近く経ったが、女子高生が出産直後の赤ん坊を遺棄したり、殺害したりで逮捕というニュースに接すると、教員時代を思い出す。 セックスに妊娠はつきものだから、手軽で安全な避妊や妊娠中絶が不可欠だ。ところが、世界で何年も前から普及している避妊パッチ、避妊リング、避妊注射、避妊インプラント(皮膚にはめ込むスティック)、緊急避妊ピル(モーニング・アフター・ピル)などを、日本政府はまだ承認しない。90カ国以上で使われているピル(経口避妊薬)ですら手軽に買えない。しかも高い。 それゆえ、日本ではコンドームが主流なのだが、予期せぬ妊娠は避けられない。そうなると非常時には妊娠中絶しかない。日本では「搔爬(そうは)法」という手術がなされる。全身麻酔した身体を産院の手術台に横たえ、子宮けい管を拡張し、子宮から妊娠組織を掻き出す。配偶者の同意も必要で、しかも10万円から20万円はかかる。そこで、冒頭のようなカンパとなる。 世界を眺めれば、もう「手術」から「妊娠中絶薬」に変わっている。フランスが1988年に世界で初めて採用して以来、80カ国以上の国々で普及している。安全で効果がある上、780円と格安だ(WHO)。 日本の厚生労働省も、最近やっと中絶薬を承認すると言い出したのだが、「配偶者の同意が必要だ」などという。なんたる父権主義!  今日のポスターは、妊娠中絶の先進国フランスのもの。このカトリックの国は、気の遠くなるほど長い間、妊娠中絶を禁じてきたが、1975年、厚生大臣シモーヌ・ヴェイユの提案で妊娠中絶自由化法が成立し、フランス女性の悪夢が消えた。 抱き合うからだの美しさ。フランス家族計画運動MFPFがつくった。フランス全土67市町村に支部を持ち、120の事務所で、中高生にセックスと生殖に関する権利の普及活動をしている。写真の下のフランス語は「からだは自由だ」。その下の緑のバナーは「セックス、避妊、妊娠中絶」。 楽しく幸せなセックスは避妊と妊娠中絶の自由から、とうたっている。 (2022年11月10日号)

第111回 国際女性デーの栄枯盛衰(ノルウェー)

イメージ
  今夏の参院選で、女性は候補も当選も過去最多だった。非改選を含め参院の女性議員は64人、25・8%となった。この候補の中に「性産業を法的に認め、セックスワーカーの権利擁護を」と唱えた女性がいて、ノルウェーの今年の国際女性デーを思い出させた。 ノルウェー女性の地位は世界トップクラスなのだが、それでもなお毎年、女性団体、政党、労組などによる実行委員会が、1年間会議をして方針を決め、国際女性デーに爆発させる。今年のオスロ実行委員会で激しい論議の的になったのは、セックスワーカーの権利だった。 2009年、ノルウェーは性を買う側(ほとんど男)を処罰し、買われる側(ほとんど女)を処罰しないとする法律を制定した。これが今年、賛否の渦を巻き起こした。法に反対するグループは「買う側を処罰する法はセックスワーカーの生きる権利の侵害」と主張。侃々諤々の末、「カネで性を買う行為を犯罪とする現在の法律こそ大事」とする主張が通った。承服できないセックスワーカー側はカウンター・デモをした。 ノルウェーの国際女性デーは長い歴史を持つ。1915年、ソ連の平和運動家コロンタイが、オスロの女性デーで演説した。その後2つの世界大戦があって、女性デーどころではなかったが、70年代になると盛り上がった。本連載67回のように、妊娠中絶の合法化が主なテーマだった。「産む、産まないは女性自身が決める」とのスローガンを掲げ、1978年の女性デーには、オスロに2万人を超す女たちが集まった。後、妊娠中絶合法化が達成された。 1979年、男女平等法が施行されて男女平等オンブッドが誕生。1981年、ブルントラントが初の女性首相となり、閣僚の4割以上が女性になった。1969年9%だった女性国会議員が、1987年には36%になった。そして1988年、男女平等法にクオータ制が明文化された。 女性が社会の中枢に入っていくと同時に、女性デーは勢いを失っていった。今日のポスターはちょうどその頃、1986年3月8日のもの。ノルウェー南東部の都市ハマールの女たちが作った。 タイトルは「女たちは、できる、必ず」。メスマークの円に怒りのこぶしが女性解放運動のシンボルなのだが、このポスターには肝心の怒りのこぶしがない。女性が、弱体化した女性解放運動を必死に立て直そうとしているのである。 21世紀になって妊娠中絶法改悪の動きとともに、女性デーは息

第110回 看護師と助産師に投資を(WHO)

イメージ
  新型コロナが世界に猛威を振るい始めた2年前、WHO(世界保健機関)からこんなポスターがネットに流れた。 「看護師と助産師に投資せよ、健康のため、男女平等のため、経済発展のため」 WHOは「看護師・助産師の国際年2020」を新設し、次のような提言を世界に向けて発表した。 「上司から敬意を払われていないと思う看護職36%、自分の意見に耳を傾けてほしいと思う看護職32%」 「看護職に影響を与えるジェンダー間の賃金格差を改善せよ」 「国の保健政策決定の場に、看護職の視点を取り入れよ」 ナイチンゲールが生まれて200年経ったイギリスでは、WHOの国際年に呼応してNHS(国営医療保健サービス)が様々な啓発、イベントを打ち出した。弱者に注がれる温かい眼差しにホロリとさせられる。 「助産師主導のCOVID-19緊急対応電話システムを新設する」 「(移民など)英語を使えない妊婦へ職員が出前する」 「ホームレスの患者を支援する」 「聾唖者を支える…」 当初欧米は、イタリアをピークに感染者も死亡者数も多かった。当時の麻生太郎財務相は「日本は民度が違う」などと欧米をあざ笑った。 しかし、時は流れ、日本は感染者数1879万7522人、死亡3万9604人と「世界最高水準」になった(いずれも8月31日NHK発表)。慢性的な人手不足で看護職の長時間労働が続くが、看護師の月収は、OECD平均よりも月8万円以上も低いと報道されている。 何より、政策決定の場にいる女性の少なさは、驚愕ものだ。コロナ関係だけを見ても、日本感染症学会理事18人の全員が男性。厚生労働省「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の12人のうち女性は2人。厚生労働省「新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード」18人のうち、女性は2人。内閣官房「新型インフルエンザ等対策有識者会議 新型コロナウイルス感染症対策分科会」の16人の中でも、女性はたったの2人なのである。 イギリスで助産師をする小澤淳子さんは言う。 「日本では、陽性の女性が、他に理由もなしに帝王切開されています(陽性女性の帝王切開率65%以上)。陽性になる前に出産をと陣痛誘発を受けさせられています。女性が陽性の時に生まれた赤ちゃんは母子分離をさせられます。WHOなどが、母子分離は母親や子どもへの弊害が大きいので反対声明を出しているというのに、です。女性のからだに

第109回 スカートをはいた女が医者になった(フィンランド)

イメージ
  ポスター「スカートゆえに」の女性はロージナ・ヘイケル。フィンランド初・北欧初の女性医師だ。 1842年、フィンランドのヴァーサで生まれた。子どもの頃、父を亡くして家庭は困窮。17歳で学校を中退せざるを得なかった。一方、医学の道に進んだ兄2人は、学問を続けた。兄たちのように医師になりたかったロージナは、夢を捨てきれなかった。が、当時のフィンランドには女性を受け入れる大学などなかった。 でも彼女はあきらめない。隣国スウェーデンのストックホルム体操研究所に入学し、理学療法を学んで帰国した。ヘルシンキ公立病院で産婆コースを修了。再びスウェーデンに戻ると解剖学・生理学を学んだ。 1870年、ヘルシンキ大学は遂に聴講生ならと彼女を受け入れた。翌年、彼女は医学部への特別許可を与えられたのだが、女性が解剖実験をすることは「不適切」とされていた。そんな彼女を、解剖学のジョージ・アスプ教授が助けた。教授自身の研究室で、特別に彼女に解剖の実験をさせた。 1878年、ロージナは外科、内科、眼科、病理学の試験に全て合格。医学部を卒業した。35歳だった。彼女の医師資格は法的に正式なものではなかったが、故郷ヴァーサで個人医院を営んだ。1882年、反対の嵐の中、女性と子どもだけを診ることを条件にヘルシンキ地区管轄医師となった。1884年、医師会はやっと彼女を会員にした。 ロージナは熱心な女性解放運動家だった。女子にも男子と同じ教育を与えよと説き、男女同一労働同一賃金を唱えた。1888年、医師会で、公娼制反対の演説をぶった。女学生に奨学金を付与する団体を立ちあげた。フィンランド初の女性解放運動団体創立にも尽力した。 日本のロージナこと荻野吟子は、1851年、熊谷市に産まれた。彼女が医師となったのは1885年。ロージナと同じ30代半ばだった。 18歳で結婚するが、夫から淋病を移されて離婚。男性医師による治療の屈辱から「女医になる」と決めた。医術開業試験の願書を毎年出しては断られ続けたが、1885年、遂に受験が許可された。もちろん合格。日本最初の公認女性医師が誕生した。ロージナ同様、熱心な女性解放運動家でもあり、日本キリスト教婦人矯風会に入会して公娼制反対を訴えた。 それから140年余り。いまフィンランドの女性医師は全医師の58・3%。日本は20・3%。日本の女性医師の割合はOECDの中で最も少ない

第108回 女性解放の先輩ロシアの堕落(ノルウェー)

イメージ
今から20年ほど前のノルウェー訪問のことだった。若い頃、女性解放運動家だった国立大学図書館館長マグニ・メルヴェールは、昔のポスターを探し出してきて私の前に広げた。 「これ、子どもを抱えたスカーフの女性がシンボリックで、ロシアのポスターのように見えます。でも70年代のノルウェーのものです。ノルウェー語で『女たちよ、メーデーでは女たちの要求をすべきだ』とあります。あの頃まで、女性運動はロシアが確かにノルウェーの遥か先を走っていたのです」 ロシア革命を指導したレーニンは1918年、憲法で女性の権利を定めた。女性は男性と同様に雇用され続ける権利も認められた。公立保育園も整えられた。妊娠中絶も合法化された(スターリン時代は再び禁止)。国際女性デーは1913年に始まって、1922年から国民の休日になった。 こうしたソ連の家族政策の礎を築いたのが、平和運動家で革命家のアレクサンドラ・コロンタイだ。彼女は、革命前、北欧諸国を渡り歩き、スウェーデンではその過激な反戦思想ゆえ逮捕されたという。後にノルウェーに滞在し、その労働運動に多大な影響を与えた。 革命後は祖国に戻って女性初の閣僚に着任したが、政権から外されてノルウェー駐在大使としてノルウェーに1930年まで住み続けた。女性としては世界初の大使だった。 ノルウェーの女性参政権は1913年だからソ連より4年早いのだが、ソ連より早かったのはこの参政権だけ。1939年までのノルウェーでは、雇用主は女性が結婚したらクビにすることができた。妊娠中絶は1978年まで違法だった。 60年代、ノルウェーの女たちはどっと職場に躍り出たものの、保育所は5%ほどの狭き門。女たちは自治体に要求をつきつけ、地方選挙に立候補した。女子学生や若い女たちは、新しい団体を次々に作っては妊娠中絶合法化に向けて戦闘を開始した。 労働党や左派政党の女たちは党内の男性主導体制と闘った。1965年、労働党の政策方針に初めて「男女平等の推進」が記された。この頃のノルウェーの女たちが、レーニンやコロンタイの国を憧れのまなざしで見ていたのも無理はない。 今やノルウェーは世界屈指の男女平等国となった。 かつて「鳩」(平和)と「子どもを抱えて働く女性」(家族政策)で北欧女性に強烈な影響を与えた隣国ロシアは、紆余曲折あってスターリンの恐怖の大粛清時代を通り、さらに曲折を経てプーチンの時代