投稿

第105回 プーチンは究極のDV男だ(ウクライナ)

イメージ
2月24 日、ロシアのウクライナ侵略が始まると、隣国ポーランドのスワヴォーミラ・ヴァルチェフスカは直ちにウクライナ国旗をつけた顔写真を世界に発信した。 彼女が館長を務める「クラクフ女性センター」を私が訪問したのは3年前の今頃だった。以来ネットでおしゃべりを交わしてきた。2月24日以降、彼女のフェイスブックは、ウクライナ救援情報であふれかえっている。   今日の1枚は、首都キエフ在住のイーナ・コーノノヴァが2月25日に投稿した写真である。 「投稿」を、英語でPOSTという。だから、これこそが本当のポスターだ。イーナは、ロシア襲撃後、「パニックになるより創造力を」と、ガムテープでガラス窓の修理にかかった。「戻れる日まで、このままにしておきます」と写真を撮った。それが遠い日本の私にまで届いた。胸がつぶされそうになった私は、イーナに直接そのことを伝えた。   この写真は、女性運動家たちにはデジャヴ( déjà-vu 、既視感)だ。そう、DV夫によって破壊された家具調度を妻が修理した後とそっくりなのだ。DV男は、自分だけが偉く正しいと思い込んでいる。言う事を聞かないやつは、徹底して力でねじふせる。自分の暴行を正当化するためなら、平気で嘘をつく。自分の悪業を他人のせいにする。自分こそ被害者と言いつのる。 プーチンこそ究極のDV男だ。   数日後、イーナは、娘夫婦とその幼い子ども総勢5人で、友人宅の地下シェルターに逃げ込んだ。 「死に直面していますが、ありがたいことに生きています」 「ああ、私たちの空、私たちの大地、私たちの祖先。でも、私たちの子孫は私たちが生き延びることにかかっています」 「夕べは食欲がなく何一つ食べられませんでした。これで無理なく痩せられます」 「ル・シルポ(キエフのスーパーマーケット)やカフェ…。また、あの日常が戻ってくるはずです」   一方、ポーランドのスワヴォーミラは、私にこう書いてきた。 「ウクライナからポーランドに逃れてくる人たちの多くは、クラクフにやってきます。3月10日には30万人が到着。クラクフは貧しい人たちも多い町ですが、自分たちの家に招き入れ、部屋を提供し、温かい心を捧げています。私は、クラクフを誇りに思います」   ポーランドは 80 年ほど前、ナチスドイツに蹂躙され、耐えに耐えた。そのうえ女性は家父長制のもとで「もうひとつの闘い」にも耐

第104回 女戦士シャールカの子孫たちは戦う(チェコ)

イメージ
スメタナの交響詩「わが祖国」。あの「モルダウ」の名旋律の次の曲「シャールカ」が本日のテーマである。 チェコの民話によれば、偉大な女性預言者リブシェ亡きあと、男たちが女たちに乱暴狼藉を働くようになった。怒り心頭に発した女戦士シャールカは、男たちに酒を大盤振る舞いしたのち角笛の合図で女兵士たちを集め、男たちを皆殺しにする。 シャールカの子孫である現代のチェコ女性たちもまた、男たちの暴力にさらされている。 昨年、「 18 歳以上の女性の2人に1人が性暴力や性的ハラスメントに、 10 人に1人が強姦にあった」という調査結果が公表された。これに、現代のシャールカたちでつくる非営利団体「プロフェム」が怒った。   首都プラハの住宅地区にある「プロフェム」のオフィスを私が訪問したのは、3年前のちょうど今頃だった。インターンも含めて 10 人ほどの女性が、広く明るい部屋でパソコンに向かっていた。 その時、頂戴したポスターを見ると、女性が射撃の的になっており、足元から流れる血が、真っ赤なハートにつながっている。ハート横には「愛しているから、つい殴ってしまう」。暴力男のよくある言い訳で、これが加害者を増長させ、暴力が繰り返される。そんな日常を描いている。 プロフェムは、調査、啓発広報などだけでは解決に結びつかないと考えて、昨年末、性暴力の犠牲者に特化した大掛かりな救済装置「総合センター」を造るプロジェクトをスタートさせた。ホームページを見るとネット募金を始めたばかり。2月 18 日現在で4万6450コルナ(約 25 万円)が集まったと報告されていた。寄付者にノルウェー政府が名を連ねている。さすがだ。 「性暴力被害者の多くはトラウマを一生引きずります。海外では当たり前の総合センターですが、残念ながらチェコにはありません」と担当者は言う。 待ったなしの緊急救助から始まって、カウンセリング、心理療法、刑事法の支援、医療的治療、社会福祉サービス…やるべきことは世界中同じだ。   では日本は? 日本のシャールカ、野口登志子さん(元鳴門市人権推進課副課長)は、行政府の生ぬるい対策に怒って、被害者支援の法人「白鳥の森」を徳島に発足させた。「公的支援はハードルが高く、一時保護期間も短く実態に合わない。公がやるべきことを私たちがやっているのです」。 日本には、 66 年も前につくられた売春防止法に依拠し

第103回 女の拳で「女性の家」を造る(デンマーク)

イメージ
世界中で、女性たちが女性であることに喜び、女性差別撤廃に声を上げる日、国際女性デー(3月8日)が、もうじきやってくる。 国際女性デーは、1910年8月、デンマークでの国際社会主義女性大会で提唱された。世界 17 カ国から女性たちが、汽車や船でやってきた。議論に次ぐ議論の末に活動目標を「各国の女性運動組織の国際的連携」「各国での女性参政権獲得」「母子福祉政策の確立」の3本にしぼった。最終日、「女性参政権獲得の闘いを、メーデーのように世界中でいっせいに」と宣言した。   翌1911年3月、「国際女性デー」が世界各地で初めて挙行された。デンマーク、オーストリア、ドイツ、スイスを中心に100万人以上がデモと集会に参加したそうだ。 デンマークは当時の記録をネットで公開しているのだが、それによるとコペンハーゲンの第1回女性デーは、デモ行進後の集会に「公民館」へ600人、「職人組合館」へ900人も押し寄せて会場に入りきれず、急遽野外集会となった。女性に選挙権がないことへの激しい怒りと悔しさ、燃えたぎる闘争心が込められた宣言文が採択された。 デンマーク女性は、それから4年後の1915年に参政権を獲得した。   このポスターは半世紀以上経た1979年、アンデルセン生誕の地オーデンセでの国際女性デーのもの。デンマーク民主党女性協会、全国青年教育協会、デンマーク共産党、社会民主党青年部、左派社会党、「女性の家」協会など加盟団体が多彩なのが印象的。女性解放団体「レッドストッキング」が元気はつらつな頃だ(「叫ぶ芸術」 72 回参照)。 女性が握りこぶしで壁をぶち破っている。目を引くのは「闘争の日 KAMPDAG」というデンマーク語。国際女性デーを「国際女性闘争デー」と呼んでいるのである。この年のオーデンセは、闘いの目標を「女性の家」創設に絞っていた。 70 年代前半、コペンハーゲンなどは女たちが空き家を占拠して「女性の家」を造り、女性解放運動の拠点にもなった。そんな場をオーデンセにも作ろう、と呼びかけたのだ。 午前 10 時、オーデンセ市民の憩いの場ムンクムーセ公園に集合。演説、デモ行進。その後、演劇、音楽、展示、女性だけのパーティ … といった催しが、市のあちこちで夜中の1時まで続いた。   ちなみに日本だが、1911年に大逆事件で幸徳秋水、管野スガらの死刑が執行され、「窒息の時代」がずー

第102回 男女半々こそ政治のアタリマエ(フランス)

イメージ
さすがは芸術の国。人々の眼を奪うシンプルさ。これは、 1998 年 3 月 8 日の国際女性デーにむけて、フランス政権与党が打ち出した傑作ポスター「彼女たち抜きの変革なんてあり得ない」である。   フランス社会党は、 1994 年、完全比例代表制で行なわれる EU 議会選挙で、候補者リストを男・女・男・女 … と交互にする 50 %クオータ制を実行した。 95 年、ジャック・シラク大統領は、「男女同数監査委員会」から憲法改正を含む提言を受けた。 96 年、女性の権利相だったイヴェット・ルーディなど女性議員が週刊誌『レクスプレス』に「パリテのための 10 人宣言」を発表。世論は一気に盛り上がった。 97 年、総選挙で「女性候補 30 %以上」を実行した社会党は支持を集め選挙に勝った。しかしながら、女性は全国会議員の 1 割にすぎなかった。 97 年、大躍進したフランス社会党は、リオネル・ジョスパン首相のもとで、社会党・共産党・緑の党などによる左翼連合政権を成立させた。大統領は共和党のシラクだったので、この政権は「コアビタシオン」と呼ばれた。コアビタシオン( Cohabitation )は「同居カップル」のこと。保守の大統領と革新の首相との共存政治体制をも、コアビタシオンと名づけたところが面白い。ジョスパン首相は、施政方針演説で「男女同数制 ( パリテ ) を実現するために憲法を改正する」と宣言した。 イヴェット・ルーディらの社会党は、 1982 年に「地方選の 25 %クオータ制」法案を作ることに成功したものの、憲法院から違憲とされる苦い経験をした。違憲判決を跳ね返し乗り超える論理が必要だった。理論家の中心に、ジョスパン首相の妻であり哲学教授のシルヴィアンヌ・アガサンスキーがいた。その主張を私流にごく簡便に表現すればこうだ。 「そもそも人類は女性と男性でなりたっている。女性抜きの社会なんてありえない。だから私たちフランス社会は、差別をなくすために暫定的に女性議員を増やそうというクオータ制ではなく、女性と男性が政治権力を半々に分かち合うための法をつくるべきだ」   こうして 1999 年、憲法にパリテ(男女同数)条項が入れられ、翌 2000 年、通称パリテ法という男女半々選挙法ができた。今日のポスターは、その歴史的大改革運動の表紙である。 2022年1月1日

第101回 女たちのためのホイスコーレ(デンマーク)

イメージ
  女たちの自由な魂の表現。マティスだってピカソだって、こんなに解放感あふれる女たちを描いてはいない。 「女たちのホイスコーレに支援を」とデンマーク語で呼びかけるこのポスターは、1970年代、寄付金集めに使われた。ホイスコーレは英語でハイスクールだが、高卒後のカレッジをさす。   デンマークの女性解放運動は、1970年に本格噴火した(叫ぶ芸術 31 回、 72 回参照)。ニューヨークで狼煙をあげた女性団体レッド・ストッキングに刺激された。マニフェスト(1969年)はこう始まる。 「女たちは、何世紀にもわたる一人ひとりの政治闘争を経て、いま男性の覇権からの解放に向けて団結しようとしている。レッド・ストッキングは、女たちの自由の奪還と団結に身を捧げる。人種差別、資本主義、帝国主義などの支配と搾取は、男性優位主義に由来する」 そして全ての女たちに呼びかける。 「私たちの責務は、自身の経験を分かち合うこと、既存組織の性差別を告発すること、“女性という階級”に属するという意識を広げること、である」 レッド・ストッキングは男性抜きの運動だった。デンマークでは、「女たちの家」を全土に作った。夏には「女たちのキャンプ」を成功させた。そしてたどり着いたのが「女たちのホイスコーレ」だ。教員も学生も女性。女性同士で学び、議論し、新しい女性文化の創造に励んだ。   「女たちのホイスコーレ」のヒントとなったのは、フォルケホイスコーレだ。 フォルケホイスコーレそのものは、 19 世紀中ごろ、デンマークの牧師が貧しい農民のためにつくった。「生きるための学校」と呼ばれ、北欧諸国やドイツにまで広がって今も健在だ。全寮制で、試験や成績はなく、教員と学生は平等な関係を保ち、対話や討論を通じて民主主義の力を身につける。 どこのフォルケホイスコーレも男女共学だが、レッド・ストッキングは女性だけのホイスコーレをつくった。募金活動で得た 80 万クローネ(約1400万円)で、古いホテルを買い取って改造し、1979年に開校した。 女たちは、仕事や勉学や家事に縛られにくい夏季の2週間に集まった。定員 40 人。コースは「女性の歴史」「女性の文学」「音楽と演劇」「女性への暴力」「日常生活における交通手段」「女性解放と労働組合」などなど。   1985年をピークに学生数が減って1994年に閉校となった。でも、自由な魂は

第100回 性差別撤廃へ41団体が手を携えた(日本)

イメージ
  今から 46 年前の1975年 11 月 22 日(土)、神田の共立講堂。冷たい雨が降る中、全国から 41 女性団体、2300人が集まった。プラカードを手に壇上に勢ぞろいした女性たちの写真が、翌々日の朝日新聞で報じられている。 「なくそう男女の差別・つよめよう婦人の力」をスローガンにした国際婦人年日本大会(当時「女性」を女偏にほうきを持たせて「婦人」と呼んでいた)。左派政党系の働く女性団体から主婦中心の団体まで、保革を超えての大同団結だった。読売新聞も「女性史上初の“快挙”」と書いている。 国際婦人年日本大会は、 80 代だった市川房枝委員長の下、1年がかりの準備を経てこぎつけた。参議院議員4期目の女性運動家で、女性国会議員 25 人(衆7、参 18 )の指導的立場にいた彼女だからこそ、主義や立場の異なった団体をまとめあげられたのだろう。大会で発表された政治、教育、労働、家庭、福祉の5分野の実態報告と問題提起は、実行委員会の手で政府の関係当局に提出された。   国連による世界女性会議の第1回は、1975年6月、メキシコで開かれた。133カ国3000人が、女性差別撤廃を求めて集まった。219条の「世界行動計画」が採択された。市川さんらは、その5カ月後、日本政府にメキシコでの「行動計画」を実行させるため、国際婦人年日本大会を開いたのだ。   私はまだ 20 代。「国際女性年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(「行動を起こす女たちの会」)に入会したばかりだった。 行動を起こす女たちの会は、「わたし作る人、ぼく食べる人」のハウス食品CMを、固定的男女役割を助長するものだと告発した。「世界行動計画」175条に基づく行動だった。すると「エキセントリック」「被害妄想」「こんなことより職をなくした母親のための運動を」などなど、揶揄と嘲笑の嵐に襲われた。今でいうネット炎上だ。市川房枝さんのハスキー声さえも、「ヒステリックな黄色い声」にされた。   この歴史的ポスターは、今年初め、多摩市に出かけた時、奈良喜代美さんから「あなたにあげたいとずっと思っていた。やっと務めを果たしました」と手渡された。 ポスター右上のマークは、メキシコの国連世界女性会議に採用されたエンブレムで、今も世界中で使われている。鳩は平和、イコールは平等、メスマークは女性。ニューヨークのデザイナー、ヴァレリー

第99回 売女と呼ぶのは許さない(スウェーデン)

イメージ
  ポスターの1コマ目は、女の子が、男の子から「売女め」と罵声を浴びせられてしょぼくれている。2コマ目は、女の子が「とんでもない、わたしは魔女よ!」と言い返す。3コマ目は、性的な言葉で侮辱した男の子をカエルに変え、自信をつけて歩き去る。 これは「セクハラやめろ!」(本連載 55 回)で紹介したセクハラ防止ポスターセットの中の1枚だ。2000年ごろ、スウェーデン男女平等オンブズマンが作成した。   スウェーデンは1998年から数年間、少年少女への性被害を食い止めるため、国をあげて中学生向けセクハラ撲滅プロジェクトを実行した。ポスター作戦はその一環で、中学生が描いた「女の子たちへの反撃のすすめ」だ。 ちょうどその頃、買春禁止法(1998)や子どもポルノ禁止法改正(1999)をめぐって、国会では賛否両論の論戦が火を噴いていた。 中高生たちは、学校内でセクハラにあって怒っていた。「売女」と呼ばれた女の子は、「女性を金で買えるモノと見て、使い終わったら捨てていいと言っているのだ」と憤激した。 1999年 10 月、ストックホルムのオーセ( Åsö )地区でデモが始まって、スウェーデン中に広がった。「売女と呼ぶな」の真っ赤な大旗を持って中高生が行進するさまは、今でもネットで見ることができる。スローガン「売女と呼ぶな」は、そのまま運動体の名前になった。 デモ行進だけではない。セクハラ退治ハンドブックを作成した。あちこちの学校を訪問しては全校生相手に討論会を企画した。さらには、学校で女生徒向け護身術クラスを新設すること、女性のシェルター予算を増やすことを要望書にして市議会に提出した。 中高生が学校内外で堂々と社会・政治運動に打ち込む様子を知って、日本の学校で教員だった私はキモをつぶした。   世界で最も表現の自由が保障されていると言われるスウェーデンだが、子どもポルノ禁止法は改正に次ぐ改正を重ねて、“表現の自由が保障する枠”の外に置かれることになった。保護対象は生身の子どもだけでなく、雑誌の中の写真、マンガ、アニメ、インターネット上の画像・動画、描画など「子ども一般の尊厳に関わる全て」が含まれる。 日本にも子どもポルノ禁止法はある。しかしそれは生身の子どもに限られている。そのせいか、ウェブ上の少女の性的画像の多くは日本発で、ウェブサイトの 73 %を占める(米 14 %、英3%)と

第98回 平等と多様性社会は選挙から(ノルウェー)

イメージ
  日本に住むウィシュマ・サンダマリは、2021年3月、名古屋出入国管理局の収容施設で人生を終えた。体に異変を感じ、診察や点滴を要求したのに無視された。屈辱の死だった。 ノルウェーに住むカムジ・グーナラトナムは、2021年3月、オスロ労働党の国会議員候補リストの2番に登載された。選挙は9月。当選は確実だ。 この2人の女性はともに 33 歳で、スリランカ生まれのスリランカ人だ。にもかかわらず、その境遇は天と地ほどに分かれた。 ウィシュマは、故国スリランカで英語教員資格を取った。日本で英語教師になることを夢見て来日。だが、同居していたスリランカ男性から暴力を受け、貯金まで巻き上げられて日本語学校の授業料が払えなくなって退学。在留資格を失い、不法滞在状態となった。 彼女は男性の暴力から逃れようと警察に駆け込んだ。ところが警察は、彼女をDV男から守るどころか、逮捕して名古屋の入管施設にぶち込んだ。死亡したのは、その半年余り後のことだった。 一方のカムジは3歳の時、内戦から逃れる両親ととともにノルウェーに移住。恥ずかしがり屋の小さな女の子だった。小学校では、白人の男の子から雪玉を投げつけられ、じっとこらえた。いじめは冬の数カ月間続いた。 高校生になって労働党青年部に入った彼女は、党幹部から誘われてオスロ県会選挙で初当選した。その後3選をはたし、 27 歳で首都オスロの副知事に就いた。この時わたしは彼女を取材した(旬報社『さよなら!一強政治』)。   今日のポスターは、おきまりの格好をした男性群を、多様な姿の人々が見つめている。若者、 レズビアンらしき女性、アジア系移民、車いすの人。ノルウェー語は「地方議会は住んでいる人たちを反映したものでなければなりません。女性にクロス(×印。ノルウェーは比例代表制選挙で、政党の決めた候補者リストの順番を有権者が×印を付けて変えられる)をつけよう。多様性のために投票しよう」。 市民団体の作品のようだが、作ったのは、「平等と反差別オンブッド」(前の男女平等オンブッド)である。「平等と反差別オンブッド」は、女性、難民、移民、同性愛者、障がい者などへの差別の撲滅をめざす公的機関。議会にそういう人たちの代表を増やそうと大キャンペーンをはった。2007年の統一選挙の時だ。 この時、オンブッドの呼びかけに応えた労働党が、女性で、若くて、肌の色の異なってい

第97回  この力こぶが目にはいらぬか!(ノルウェー)

イメージ
  力こぶを誇示する、カーリーヘアにツナギの少女。 スプレーで吹きつけたグラフィティは、「高い賃金を」「やりがいのある仕事を」「安全な職場を」「選べる仕事を」…さらに下段で、「男の仕事とされていた理数系、石油産業、コンピューター関係の仕事に入っていこうぜ」 ノルウェーの女性首相が閣僚の 40 %を女性にして世界を驚かせたのは1986年5月のことだった。その数年後、私はオスロの男女平等オンブッド事務所を訪問。そこで遭遇したのが、このポスターだった。男女平等オンブッドは言った。 「これは女子高生向けのプロジェクト『限界を突き破れ!』で作られました。結果は、大学の法学部や医学部の学生の 50 %が女性になりましたが、まだまだです。中学教育を変えないといけませんね」 当時、私は都立高の教員を辞めたばかり。日本の女子高生は、髪型や服装が厳しく決められていた。名簿は男が先で女が後だった。女子の進学先は4年生大学よりも短大が好まれ、就職先も事務職に限られていた。こんな「限界だらけ」の日本社会にうんざりしていた私は、国を挙げて男女平等を進めるノルウェーに感動した。 つい最近も『限界を突き破れ!』精神とおぼしき出来事があった。ビーチ・ハンドボールのヨーロッパ選手権大会でのこと。ノルウェー女子チームは、「女性用ユニフォームは不快です」とクレームをつけた。 規則はこうだ。「トップスは、胴部分をあらわにして、背中側の袖ぐりを中心に切り込んでいなければならない」「ボトムスは、脚の付け根に切り込んだ形のビキニ・パンティにし、側面の生地の幅は 10 センチを超えてはならない」 つまり、「女性は露出せよ」なのだ。ノルウェーチームは、男性と同じ短パンで出場すると申し出たが、主催側は「罰金(総額5万ユーロ、日本円で約650万円)を科す」と返答。ノルウェー側は「喜んで払う」と応じた。 ところが、初戦のハンガリー戦直前「失格」をほのめかされて、泣く泣くビキニ・パンティで戦った。しかし次のスペイン戦では短パンで出場。罰金を食らった。 これにノルウェーの文化・平等大臣(男女平等の責任者)アビド・ラジャが怒った。7月 21 日、彼はツイートした。「こっけい極まる! この古臭い親父クラブを変えるのにどれだけクソ努力をしなければならないのか! 平等の大切さを何もわかってない。最悪だ」 その文化・平等大臣が8月上旬、

第96回  コペルニクスは女だった?(ポーランド)

イメージ
ポーランドの首都はワルシャワだが、 16 世紀まではクラクフが首都だった。この古都はユネスコの世界遺産第1号である。 2019年3月のこと、クラクフ市役所前の美しい広場に、『クラクフは女性だ』と題された巨大なポスター5枚が掲げられていた。 女性の権利のために闘ったクラクフの歴史上の女性たちが、写真入りで解説されていた。ところが最終の5枚目には、世界の偉人中の偉人コペルニクスがこちらに向かってウィンクしているではないか(ポスター左下の円形写真)。 エーッ、なんだこれは! と驚いて解説を読むと、こう書いてあった。 「SF映画『セックスミッション』によれば、コペルニクスは女性だったとされています。コペルニクスは地動説を唱えた天文学者ですが、『彼女』はここクラクフを故郷とし、クラクフ大学で学びました」 私はクラクフ市役所に直行した。担当職員ユスティナが現れた。 「あなたのような反応があると、とてもうれしいです。女性の問題は、このように奇抜なアイデアをこらさないと、歴史に埋もれてしまいます。『クラクフは女性だ』のポスターは、昨年、女性参政権獲得100周年を迎えた我が国を祝って、市長が音頭取りしました。企画したのは私たち2人、市長付職員です。故郷の英雄コペルニクスは、目をとめていただくために考えつきました。彼、いや『彼女』(大笑い)の写真はトリンの大聖堂にある画像を、特別な許可を得て左目がウィンクしているように加工したのです」 ポスターのサイズは大きくて、コペルニクスが通行人に挨拶するかのようにできている。世界中からクラクフにやってくる観光客も、当然足をとめる。 聞けば、SF映画『セックスミッション』 ( 1984 ) は、共産主義時代のポーランドを風刺したコメディで、上映 1 年間で観客数が100万人を突破。数年後に公開されたロシアでは4000万人が見たという。伝説的な映画なのだ。 男2人が目覚めたら、そこは女ばかりの帝国。男性は絶滅したはずなのだが、2人は何かの拍子で生き延びてしまった。査問にかけられて「コペルニクスは男ではないのか」と叫ぶと、帝国の幹部女性が「それは間違いです。コペルニクスは女です」と断じ、彼等を断罪する。 「共産主義こそ真の革新。労働者に繁栄と解放をもたらす」と、共産主義政権は国民に断じて、異論を許さなかった。ポーランドの人々は、映画に同じような嘘と教条

第95回  男たちよ、育児もあなたの仕事だ(オランダ)

イメージ
「この胸毛の男のポスター、気持ち悪いのよ、ワーッハハハ。どう思う、あなた?」 「オランダ女性の利益」のリーダ・ナロップさんは、縦170㌢以上、横100㌢以上のド迫力ポスターを広げながら笑い転げた。 パパの育児を促すキャンペーン用で、ユトレヒト市男女平等局から資金が出た。ユトレヒト駅の広告塔にあわせると、こんな大きさになるのだという。 「オランダ女性の利益」は100年以上の歴史を持つ民間女性運動団体だ。オフィスは、ユトレヒト駅から徒歩 15 分のところにあった。訪問したのは4半世紀前の1994年。 北欧ノルウェーでは、政府を批判する市民団体にも公費補助されると知って驚いたが、オランダも同じだった。「オランダ女性の利益」には自治省から日本円で年約900万円が出ていた。『女性議員を 35 %に』と描いたゼッケンをつけた女性たちが大勢ワーッと電車に乗り込むゲリラ選挙戦も話題を呼んだ。 それで、オランダ男性の育児休業取得は進んだのか。 実は最新調査では、オランダ男性のわずか 11 %しか育休を取っていない。7%の日本男性よりはずっとマシだが、ノルウェーの 90 %とは雲泥の差。国際調査で「子どもの幸福度世界一」のオランダなのに育休のこの低さ! なぜか?  カギは、一般的に労働時間が短いことのほか、労働者に「正規」対「非正規」の格差がない点にありそうだ。 オランダの平均労働時間は週 38 時間。残業も非常に少なく、毎日子どもと夕食をとれる家庭がほとんどだ。労働時間差別禁⽌法 (1996)が、 パートタイムとフルタイムの待遇格差を厳しく禁じており、有給休暇は週の労働日数の4倍と規定されている。週5日なら 20 日、4日なら 16 日、3日なら 12 日 … となる。 問題の育休も、有休と同じ原理だ。こちらは週の労働日数の 26 倍と定められていて、週5日だろうが3日だろうが、それぞれの労働時間に比例して育休が取れる。 あまり父親が取らないのは、この厚い労働条件のおかげで日ごろから家庭で過ごせる時間が多いことと、母親の負担がそれほど重くない、ということのようだ。 労働時間差別禁止法のない日本の非正規労働者は、正規労働者が持つ権利を持っていない。同じ職場で同じ仕事をしていても、正規なら育休を1年取れるのに、非正規は「雇用を更新されないと困るので、妊娠は避けています」となる。 今、国会

第94回  「性解放」の文化に痛列な一撃!(フランス)

イメージ
  この4月、フランス国会で、 15 歳未満との性交は理由の如何を問わず「強姦」とされる刑法改正法が成立した。刑罰は最高 20 年の禁錮刑だ。近親姦に関しては「 18 歳未満」とされた。しかし例外もあって、2人の歳の差が5歳以下の場合のみ刑から外される。これは「ロメオとジュリエット条項」というのだそうだ。 フランス刑法は、子どもとの性交を禁じてきた。しかし、「子どもも意思表示できる」とされ、強制・脅迫・偽計によって性交させられたことを子どもの側が証明しなければならず、起訴が非常に難しかった。 国会は、性交同意年齢引き上げを長年議論してきたが、結論は出なかった。それがなぜ、先月、全会一致に至ったのか。 フランスには、女性の「産む産まないを決める権利」を求めて 60 年以上も闘ってきた団体があり、その「フランス家族計画運動」のポスターがこれだ。 「世界中の女たちすべてに、教育と健康、なによりも危険のない出産を」とうたう。全国に 40 のクリニックを持ち、相談者は年 35 万人以上。強姦やFGM(性器切除)などによるトラウマから、避妊や妊娠中絶の手続きまで、性に関わるありとあらゆる問題が持ち込まれる。 移民女性には特に頼られ、ポスターの3人がアフリカ系なのも、それを物語っている。 加えて、今回の改正を確実にしたのは、エリート文化人たちの蛮行が次々に露呈したことだった。 昨年 1 月、編集者ヴァネッサ・スプリンゴラは『同意』という自伝本を出し、 14 歳の時、 50 歳の男性から 1 年半にわたって性被害を受けたことを告白した。男性は流行作家ガブリエル・マツーネフ。彼女との関係を利用した著作は高く評価された。芸術文化勲章(1995)、文学賞(2013)をとり、年8000ユーロの文学者手当まで受けている。 さらに今年 1 月、大学教授で弁護士のカミーユ・クシュネルが自伝『大家族』で、義父(実母の再婚相手)が 13 歳だった彼女の弟に性的虐待を加えていたことを暴露した。義父はオリビエ・デュアメルという元欧州議会議員の憲法学者。マスコミに頻繁に登場する左派知識人だ。 これらの告白本をきっかけに、市民の怒りが大爆発。女性団体は、パリ中の壁という壁に、性被害女性の名前をポスターにして貼りまくるゲリラ戦術を展開した。 カソリックに根ざした性的抑圧からの解放が叫ばれた 60 年~ 70

第93回  女性が選挙権を得て106年(デンマーク)

イメージ
  4月 10 日は歴史的な日だ。戦後すぐの1946年のこの日、日本女性は初めて投票所に足を運んだ。その衆議院議員選挙で、全国から 79 人の女性が立候補し、 39 人が当選した。割合にして8・4%だ。ところが、2021年現在、いまだに女性は9・9%にすぎない。 デンマークの女性が初めて投票所に足を運んだのは1918年だった。立候補した女性 41 人中、当選したのはわずか4人、2・9%。だが100年以上経った今、女性は 40 %! 首相も女性だ。 女性が1人、暗い家の扉を開けて草原を見つめる。ミッテ・クヌートセン監督のドキュメンタリー映画「自由 平等 参政権」(1990)のポスターは、夜明けを迎えつつあるデンマーク女性を描いている。 映画公開から 10 余年経た2002年、私は憧れのフェミニスト監督ミッテに会うためコペンハーゲンの自宅を訪ねた。そのとき頂戴したのがこのポスターだ。先日、偶然ネットでこの映画を観た。 女性に参政権を与える法案が初めて国会に出されたのは1886年 11 月。提案者は平和主義者で知られるフレデリック・バイヤー議員で、後にノーベル平和賞を受賞した。妻のマチルダ・バイヤーは女性解放運動家だった。2人は1871年、女性の権利を求めるデンマーク初の運動体「デンマーク女性ソサイエティ」を創設。会の定期刊行物『女性と社会』は世界最古の女性誌と言われる。 旧来の法文には「女性、子ども、犯罪者は選挙権がない」という表現があった。その文面から女性を削除したのが新法案だったが、「女性は夫を通して政治に参加できる」という意見が大勢を占め、反対多数で否決された。 1887年2回目も否決。1890年3回目。1891年4回目。1893年5回目。1895年6回目。1897年7回目。1903年8回目。1905年9回目。1906年 10 回目。1907年 11 回目。1908年 12 回目。1912年 13 回目。1913年 14 回目。その度、議長が「否決」と木槌を振り下ろす。しかし、ついに1915年、 15 回目にして賛成多数で可決成立。ここまで 29 年かかった。 その間、女性参政権を揶揄する風刺画が出回った。例えば、男性を足蹴にして倒そうとするこわもての女性が描かれ、「私かあなたか、家の主人はどっちだ」と。こうした非難や嘲笑をよそに、女性たちは数々の新組織を創設して

第92回  女のからだは政府のものではない(ポーランド)

イメージ
  2019年3月、ワルシャワの「女性の権利センター」を訪れた時、ウシュラ・ノバコウスカ館長から「私たちセンターのものではありませんが、女性の大規模なデモのポスターです」と寄贈された。 シンプルだが強烈な印象を与える女性の顔。上部には「もう、うんざり! 女性蔑視や女性への暴力」。下は「デモだ。女のゼネストだ。2016年 10 月 23 日 15 時、ポーランド共和国下院前に集まれ」。 ポスターは2016年9月、ポーランド国会で妊娠中絶を禁止する法案の審議が始まることに怒った女性たちによって作成された。法案に抗議して、ワルシャワやクラクフなど全国約150の町で黒装束の女たちが広場へと繰り出した。その数 15 万人! 「女を激怒させるな!」「女の地獄は続く」「産む産まないを選ぶ権利は私にある」。その圧倒的数に屈したのか、国会は、法案を賛成 58 、反対352、棄権 18 で取り下げた。女性たちが勝利したかに見えた。 ところが2019年秋、選挙で右派政党「法と正義」が単独過半数を取ると、憲法最高裁に右派判事が任命されて右派が多数派になった。 「法と正義」は、憲法最高裁に判断を任せる戦術に出た。憲法最高裁は、コロナ禍のさなかの2020年 10 月、「胎児に重い障害がある場合の妊娠中絶を許す現行法は違憲」とした。抗議のデモは、ポーランドを超えてヨーロッパ各地に飛び火し、 40 万人を超えた。 ポーランドはカソリックの強い国だ。公表される妊娠中絶件数は年1000件程度と、ヨーロッパ諸国の中で極めて低い。ところが実際は、その150倍以上の女性が国外に出かけて手術している、と女性団体はいう。 憲法最高裁判決から数ケ月後の2021年1月 27 日、ほぼ全ての人工妊娠中絶を禁止する法律が施行された。今後、ポーランド女性は、強姦や母体の命に危険がある場合以外は妊娠中絶が不可能となった。 友人スワヴォーミラ・ヴァルチェフスカ(歴史学者)から聞いたのだが、ポーランドは大国に挟まれた辛苦続きの小国だ。とくに、第二次大戦中のナチスドイツによる大虐殺は記憶に新しい。そんな歴史ゆえに、「耐えに耐えて最後まで愚痴を言わないのがポーランド人」といわれているのだという。 だが、そんなポーランド女性たちも、耐えがたい事態に直面して爆発した。昨年暮れから今年に入っても、ポーランド全土で繰り広げられる抗議デモの

第91回  男性議員と女性議員、多くてもダメ少なくてもダメ(フランス)

イメージ
フランスの市民運動団体「 Elles aussi 」(彼女たちも)は2021年の年頭、こう呼びかけた。 「明日、女性に公平な場を! 2020年のコロナパンデミックは、女性がいかに社会的に弱い立場に置かれているかを知らしめた。女性たちは、低賃金・非正規で治療・予防に必要不可欠な職の最前線にいる。2020年は女性が地方議会にほんの少し増えた年でもあった。私たちはこれに満足しない。女性の市長が全体のわずか 21 %ではダメだ。 30 %にしよう」 2020年、フランスは統一地方選だった。フランスの地方の選挙制度は地方によって異なるが、大体は比例代表制による2回投票制だ。1回目で過半数を取った政党がない場合(大体がそうだ)、もう1回投票する。市長選はなく、多数派政党の候補者リストの1番上に載った人が市長になる。 コロナ禍で、2回目の投票日は3月から3カ月も延期された。全国各地で緑の党が大躍進し、女性市長も女性議員も増えた。 パリでは、緑の党と組んだ社会党の候補者リストでトップに載ったアンヌ・イダルゴが市長に再選。2014年、初めて市長となった彼女は2歳の時、フランコの弾圧を逃れた両親に連れられて亡命したスペイン系移民だ。最初の夫との間に2人、2番目の夫との間に1人の子を持つ母親でもある。こういう女性が当選できるのも比例代表制だからこそだ。 2020年の統一地方選で「 Elles aussi 」は「今日の女性市民は明日の市長です」というスローガンを掲げた。パリテ法(男女半々法)から 20 年も経ったのに、1000人以下の小さな自治体はパリテの風が吹かないので業を煮やしたのだ。 今回のポスターは、この「 Elles aussi 」が、パリテ法制定後すぐの2002年、作ったものだ。 青で書かれた言葉を和訳すると、左上から、「市町村議員、県会議員、地方圏議会議員、国民議会議員、元老院議員、大統領」。すべて男性名詞だ。よく見ると、一つひとつの語の後ろに、赤の手書きで女性名詞のための接尾語がつけ足されている。そして、中央部の太字が叫んでいる。それが今回のタイトルだ。 「 Elles aussi 」は、6つの女性運動団体が1992年に連帯して立ち上げた。フランス政府とEUが補助金を出した。当時のスローガンは「国会も地方議会も女性を半分にしよう」。パリテ法に先鞭をつけた。 ひるがえって日本

第90回  世界初のフェミニスト政権(スウェーデン)

イメージ
  スウェーデンの男女平等政策が世界のトップを走っていることを疑う人はいない。 特に今から 4 年前の 2016 年のこと、ロベーン首相(北欧 5 カ国で唯一の男性首相)が「私たちは世界初のフェミニスト政府です」とぶち上げたのには、私も目を丸くした。首相はさらに「男女平等は社会変革へのカギです」「男女平等達成のための政策を実行し、あらゆる政策に男女平等の視点を入れます」と宣言した。 実際、国会や内閣はむろん、審議会、委員会、すべての公的組織の構成員がほぼ男女半々となった。地方自治体の首長や管理職の女性の平均賃金が初めて男性を上回った。男女平等大臣は語った。 「 1980 年代から 30 年以上も公的委員会や審議会などにおける構成員の男女平等を進めてきて、やっと実を結んだのです」 その 1980 年代、日本の都議会に当たるストックホルム県議会は「あらゆる仕事に男も女も入っていこう」と呼びかけた。そのとき使われたのが今日のポスターだ。 ピンク地に切り絵をはりつけてある。切り絵は日本や中国だけでなく、北欧でも長い伝統があり、クリスマスツリーや窓の飾りによく使われる。 黄色い三角形は、スウェーデン人の大好きなアイスクリームのコーンのようだ。「ミックス( blandat )が最高!」と叫んでいる。 ここで重要なのは、男女が 3 人ずつ入り混じっていること。しかも、ヘアスタイルや目の形が異なるさまざまな人種。「すべての仕事に女も男も」「ストックホルム県議会 男女平等に向かって」とある。 この後、 90 年代に入ると、スウェーデンは 10 人以上の企業主に男女平等促進行動計画と男女賃金格差調査の提出を義務づけた。男女平等オンブズマンがお目付け役となった。 さて日本。このポスターを作られたころの 80 年代、男女雇用機会均等法ができた。名前は大層立派だが、日本女性はパートや派遣という非正規労働に押し込まれた。 2020 年 4 月の統計を見ると、その非正規労働者が昨年より 97 万人減った。だが「非正規が減った」と喜ぶのは早い。クビを切られたのだ。その 7 割以上は女性だった。新型コロナウイルスの影響と見られていて、その深刻度は、今さらに進んでいる。  2021年1月1日

第89回 ベリット・オースに〝草の根ノーベル平和賞〟(ノルウェー)

イメージ
  今年の「人民の平和賞」はノルウェーのベリット・オース(1928年生)に決まった。 この賞は、ノーベル平和賞に対抗した草の根のノーベル平和賞で、スウェーデンのオルストにある平和運動団体が運営する。受賞式は 12 月5日だったが、新型コロナの影響で来年3月6日に延期された。 女性運動家、政治家、平和運動家、社会心理学者、オスロ大学名誉教授。ベリット・オースには、「初の…」が、数えきれないほどついてまわる。 1971年のノルウェー地方選で、オスロ、アスケール、トロンハイム3市は、ノルウェー史上初めて(おそらく世界初)女性議員が男性を上回る議会となった。「男を消せ」キャンペーンの結果だった。 ノルウェーは国会も地方議会も比例代表制選挙。投票用紙には政党が決めた「候補者リスト」が記されているのだが、投票者は名簿の順番を変えることができる。 60 年代まで、どの政党も「候補者リスト」の当選圏(つまり上の方)は男性、下位は女性と決まっていた。彼女は、上位の男性の名前を消して下位の女性を上にあげて当選させるという運動を展開した。 1973年、ベリットは創設に加わった左派社会党の初代党首に。ノルウェー初の女性党首は、クオータ制を政党として初めて取り入れ、選挙で大躍進。他党の模範になった。 73 年から 77 年まで国会議員に。ここで自らの屈辱体験を元に、男性による女性支配構造を「5つの抑圧テクニック」と題して世に出した。社会心理学者の面目躍如。その冊子は北欧中心に世界に広まった。アイスランドの「女のゼネスト」は、この冊子が火種となって燃え上がったのだそうだ。 さらには、アメリカの国際女性の平和ストライキにならってノルウェー平和キャンペーンを設立し、ノルウェー政府の「軍縮委員会」の創設につなげた。スウェーデン、デンマークの市民団体とともに、ノルウェー女性の平和運動を組織化。「人民の平和賞」受賞は、この活動が評価されたのだろう。 私はポケットマネーをはたいて2003年、彼女を日本に招待した。豊中市、名古屋市、武生市(現越前市)、高知市で講演。その全訳「支配者が使う五つの手口」は拙著『ノルウェーを変えた髭のノラ』(明石書店)で読める。 今日のポスターは、ベリットたちが開校した「フェミニスト大学」(ヘードマルク県ローテンで1983年)の宣伝に使われた。 92 歳の闘女にスコール(乾杯)!

第88回  ペンは力なり (ノルウェー)

イメージ
  羽根ペンがヒラヒラと揺れ動き、シルエットの女性の口もとからは歌が流れてきそうなポスターだ。IT時代の今日なら動画になって一瞬で世界に流れるのだろうが、これは1986年のことだった。メスマークのピアスが象徴的な「国際フェミニスト・ブックフェア」は、同年6月 21 日から1週間にわたってノルウェーのオスロを中心に展開された。 2年前の1984年6月、イギリスで世界初の国際フェミニスト・ブックフェアが開かれた。会場となったロンドンのコヴェント・ガーデン周辺には、 22 カ国100以上の出版社によってフェミニスト関連の出版物のスタンドが所狭しと立ち並んだ。わずか2日間だったが、参加者が世界から駆けつけて、大成功だった。 熱気と興奮の中、次の候補地としてノルウェーが決まった。1960年代に女性解放運動に火がついた国。 81 年にはグロ・H・ブルントラント( 42 歳)が初の女性の首相に就任した国。ノルウェーには、女性たちのやる気が横溢していた。 オスロのブックフェアでは、多彩なイベントが企画された。展覧会、即売会、ワークショップ、討論会、セミナー、読書会、コンサート、演劇、映画、音楽…。一般読者に加え、作家、翻訳家、出版社、編集者、ジャーナリスト、批評家、印刷業界、デザイナー、販売、司書…と本に関する叡智が集結した。 最も人々の心を打ったセッションは、スペイン、ケニア、南アフリカ、北アイルランド、ウルグアイから作家を招いてのセミナー「作家という危険な職業」だったと記録にある。もの書きの女性が逮捕監禁されたり、村八分にあったことが報告された。リベラルといわれている国でさえも、マイノリティの女性は、著作活動そのものも、著作で聴衆を集めることも、極めて困難だったことが明らかになった。 それでも、古今東西、女性たちは迫害をかいくぐって書き続けた。ものを書くことによって、自らが置かれた第2の性(男中心社会で主体性を奪われた存在である女性)、貧困、抑圧などをはねのけようとした。書くことは生存に欠かせない行為、女性解放への闘いそのものだった。 ブックフェアはノルウェーの後、カナダのモントリオール(1988)、スペインのバルセロナ(1990)、オランダのアムステルダム(1992)、オーストラリアのメルボルン(1994)と続いた。 そういえば、 10 月 27 日から 11 月9日まで読書

第87回  私は金で女性を買わない(アイルランド)

イメージ
  アイルランドは、2017年2月、金で性行為を買う人物を罰し、売る側を合法とする法律を制定した。スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、カナダ、フランスに続いて世界6番目の「買春禁止国」となった。 アイルランドといえば「セント・パトリックス・デー」を思い出す。 19 世紀、アイルランド人は母国の飢饉・飢餓・迫害などを逃れて、アメリカにドッと移住した。だからニューヨークにはアイルランド系アメリカ人が多い。私が留学した大学の指導教授もその1人だった。 イギリスに支配された屈辱の歴史は、移住先でも消えなかった。黒人に準ずる差別を受けた。アイリッシュの警察官を嘲笑する映画もあった。だから年1回、3月 17 日はアイルランド人であることを誇り、連帯を見せる日になった。 アイルランドはカソリック教国で、離婚も人口妊娠中絶も最近まで禁止されるなど、女性差別の目立つ国だった。しかし、こうした私の表層的なイメージは、買春禁止法をめぐるアイルランド人の卓越した運動を知って吹っ飛んだ。 国会を動かす力になったのは「赤いライトを消せ」運動である。性暴力根絶団体や子どもの権利擁護団体から政党、労組、農協、私企業まで、なんと 74 団体、160万人をその傘下に集め、ついに買春禁止法を誕生させた。 10 年間の運動を引っ張ったのは、女性差別撤廃や人権擁護の運動家デニース・チャールトン。彼女は、それまでの大戦略をビデオにまとめ、こう語る。 「売買春は国際的巨大産業ですが、真相が見えにくい。そこで、売春サバイバーの証言を聞く作業から始めました。証言の映像は議論の力になります。嘘を暴いたり真実を知らせたりするには映画やポスターなどのアート(芸術)が大事。これをソーシャルメディアで流しました」 法律を制定させて3年。今、アイルランドは、神話撲滅運動に移っている。 神話「売春は他の労働と同じような労働でしょ」 真実「最も危険だとされる仕事よりも売春は 40 倍も死亡率が高く、売春婦の6~8割が暴力や虐待の被害にあっています。そんな仕事は他にはありません」 神話「インターネットでエスコートをしますと言う女性は、独立した実業家でしょ」 真実「組織的犯罪組織と結びついている証拠が数多くあります。独立したビジネスと思わせるように宣伝しているだけです」。 そんなキャンペーン用ポスターの1枚がこれである。  202

第86回  〝買春〟は許されない! (フランス)

イメージ
  新型コロナウイルスの蔓延で最も深刻な事態に陥るのは、もともと社会的に不利な立場に立たされていた人たちだ。非正規労働者、移民…なかでも性産業で働かざるをえない人たちの暮らしはいかばかりだろう。 2020年4月、フランスでは、 27 もの市民団体が連名でマクロン大統領や大臣に「売春せざるをえない人たちが政府の緊急経済支援対象から外されないように」との要望書を提出した。この背景には “ 買春 ” 禁止法がある。 2016年、国を二分する長い論争の末、「売春は女性への暴力」とされ、買う側が罰せられることになった。罰金は 47 万円(3750ユーロ)だ。その一方、売春をやめようとする人には資金援助が用意され、不法滞在者には一定期間の滞在許可まで出されることになった。 買春禁止法推進運動を率いたのは、「ネスト・ムーブメント」(避難所運動)という団体だった。1971年創設以来、「売春婦たちとともに売春制度をなくそう、女性へのあらゆる暴力に反対しよう」と、啓発やロビー活動をしてきた。国内に 34 支部を持ち、専従職員 20 人と大勢のボランティアが働く。 今日のポスターは「ネスト・ムーブメント」がかつて企画編集した漫画本『サンドラのために』(1996年刊行)の宣伝に使われた。 物語の主人公は、ドリス(ポスターの左)とサンドラ(本の表紙の女性)の2人だ。 サンドラは 10 代で、小うるさい母親を嫌って家出。ボーイフレンドに人生を捧げようと決めて同棲するが、彼は甘言と暴力を巧みに使い分けてサンドラを売春の道に引きずり込む。 ドリスは暗い過去を封印した女性で、今は夫と息子がいる。サンドラの話を聞き、若い頃を思い出し、サンドラを売春組織から救い出そうと必死になる。 エイズや暴力など深刻なテーマを芸術作品に仕上げて「神業作家」とうたわれるスイスの漫画家デリブが絵を引き受けた。1年間で 14 万部が売れた。「売春への偏見が薄れて理解が進んだ」と大評判をとった。 さて、わが日本。お笑い芸人岡村隆史は、ラジオで自らが買春の常連であると語り「コロナあけたら、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。なぜかと言えば、短期間でお金を稼がないと苦しいですから…だから今我慢しましょう」と公言して、女性団体から激しい抗議を浴びた。 岡村は、NHKの人気番組「チコちゃんに叱られる」のレギュラーである。こんな買春男を

第85回 #SAYHERNAME MARCH 彼女の名前を言おう (アメリカ)

イメージ
  アメリカの新型コロナの感染者は440万人、死者は 15 万人を超えた。そんなパンデミック真最中のあちこちで、大勢の市民が集まって「ブラック・ライブズ・マター( Black  Lives Matter )」と叫んでいる。「黒人の命も尊重されるべきだ」という意味で、頭文字を取ってBLMと呼ぶ。 今年5月、ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官に首を押さえ付けられて死亡。「息ができない」という彼の言葉と、生々しい映像とともに、BLM運動は世界に拡散した。 7月初め、偶然BLM運動のホームぺージを訪ねたら、黒人女性のシルエットが目に飛び込んできた。 「『彼女の名前を言おうマーチ』に参加を。 2020年7月4日午後4時、ボストンのヌビアン広場集合。BLM運動に参加して、黒人女性の命を哀悼し、誇り、祝おう」とある。 赤地部分に黒い文字で、無数の女性の名前がびっしりと記されている。「彼女の名前を言おう」運動は、BLM運動と表裏一体で続いてきた。これまで数多くの黒人女性たちも警官に殺されてきたが、男性ほどには騒がれもせず、名前さえ忘れ去られた。それに憤った女たちから「彼女の名前を言おう」運動が生まれた。 ポスターには、黒人女性を表す英語に「 Black Womxn 」が使われている。アメリカに留学した 80 年代、フェミニストの友人から「マリコ、もう Woman という man がある言葉は使わないのよ」と言われたのを思い出した。 懐かしさがこみあげてきた。そうだ、「 History 」は「 Herstory 」に、「 Fireman 」は「 Firefighter 」に。それは、男性中心の言語や文化を変えようというアメリカ女性の知恵と情熱が込められた運動だった。いまだに夫のことを「主人」などと崇める日本に住む私は、すっかり忘れていた。 そもそもBLM運動を世に出したのもアリシア・ガーザという黒人女性である。女性運動家にして作家、全国家事労働者連盟のスタッフだ。 2013年7月、アリシアは、黒人高校生を射殺した被疑者(自警団)が無罪となった事件への抗議をフェイスブックに書き、最後に「黒人の命も尊重されるべきだ」と添えた。それに仲間の女性がハッシュタグをつけて拡散させて、運動に火がついた。 1人の黒人女性が先陣を切った市民運動に、いま白人女性、黒人男性、白人男性も

第84回  コロナに立ち向かうアフリカ女性研究者 (マリ共和国)

イメージ
  直火に鍋をのせて料理をする、左手で子どもの手を引き右手で物を運ぶ、子どもと一緒に農作業をする、たきぎや布や食料を頭にのせて運ぶ、掃除をする、食べ物をよそう、膝の上で赤ん坊のおしめを変える…。布で赤ん坊を自分の体にまきつけている女性も多い。男性は、笛を吹いたり太鼓をたたいたり、といい気なものである。 「これ、西アフリカのマリの織物です。これをくれた薬学博士のロキア・サノゴは有名なフェミニストなんです」。 ローマ在住の友人マリア=グラッツィア・ジャンニケッダ(サッサリ大学教授)宅を訪問したときのこと。壁に貼られた一枚をじっと見ていた私に、そう語った。 ロキア・サノゴは1964年マリ生まれで、マリとイタリアの2つの大学で博士号を取得。大学で教えながら、WHOと共同で数々の国際研究に従事する。特に力を入れているのは、女性の性器切除(FGM)、妊産婦や新生児の死亡、不妊、更年期障害など女性に特有の健康問題を解決するために、薬草など伝統的薬剤による処方を取り入れた研究だ。 マリは、男女格差の際立つ世界最貧国のひとつだ。世界経済フォーラム「ジェンダー・ギャップ指数」によると、世界153カ国のうち139位(ちなみに、日本も121位と恥ずかしいほど低い)。 識字率は 33 %前後ときわめて低いが、さらに、女性は男性の半分だという。いわゆる「子ども結婚」が蔓延し、少女の 17 %が 15 歳前に、 52 %が 18 歳前に結婚する。貧しさゆえ親は強制的に娘を結婚させる。結婚する少女・女性たちは性器切除されている。一夫多妻が残っており、子ども結婚は「家事奴隷・性奴隷の隠れ蓑」といわれている。 マリはサハラ砂漠南に広がる半乾燥地域にあり、地球温暖化によって年々農作物の収量が落ちている。それに加えて、アルカイダと関係のあるイスラム過激派武装勢力によって内戦状態にあり、国内難民が激増した。さらに、これでもかとダメージを与えたのは、新型コロナウイルス感染である。 先月、海外メディアからロキア・サノゴ博士の名前が流れてきた。「マダガスカルで採れる植物アルテミシア(ヨモギの一種)で、感染予防と治療に効果が出ました」と共同研究の成果を公表したのだ。先進国の特効薬開発競争とは別の「もうひとつの道」を追い続ける研究者がアフリカにいるのを、私は初めて知った。応援しよう。 2020年7月10日  

第83回  多様な声を受け止める比例代表制 (ベルギー)

イメージ
  ベルギーの医療保健水準は世界トップクラスで、コロナ対策も早かった。ところが、コロナによる致死率は世界一。その不名誉な地位に、ベルギー政府は「病院での死亡だけでなく介護施設や地域での感染が疑われる死亡も含めているので、算出方法が異なる」と断じた。 とはいえ、医療従事者のストレスは並大抵ではなさそうだ。5月になって、コロナ治療にあたる大病院を首相(女性)が激励に訪れた。看護師たちは、首相の車が滑り込む道路の両サイドに長い列を組んで立っていた。拍手で迎えるのかと思いきや、全員が次々と車にクルリと背を向けたのだ。 看護師の待遇が悪くなりかねない新法案への「抗議デモ」だった。「政府は私たちの要求に背を向けたでしょ」との看護師組合のコメントが冴えていた。このデモの後、首相は法案について話し合い続行を提案してきたと報道されている。 そんなベルギーを私が訪問したのは1994年だ。九州ぐらいのミニ国家なのに連邦制をとっていて、しかも公用語がフラマン語(オランダ語)、ワロン語(フランス語)とドイツ語の3つもあった。 このポスターは、当時、ベルギー政府の雇用・平等大臣を訪問したときに贈られた。「男女で均等のとれた賃金」と書かれている。男女平等を進めるために施行された「アファーマティブ・アクション(暫定的特別施策)法」の啓発だと大臣秘書が言った。よく見ると、女3人よりも男3人のほうが中央に寄って座っている。重い方(男)が工夫してくれれば平等になりますよ、というわけだ。 アファーマティブ・アクション法のほかにも性差別禁止法があって、性による差別撤廃への強い政治的意思を感じたが、秘書は「国会に女性はわずか9%。EUの顔ですから、もっと増やさなくては」とこぼした。あれから4半世紀。首相は女性、国会議員の4割を女性が占めるまでに増えた。 ベルギーは比例代表制選挙発祥の地。あのドント方式を考案したヴィクトール・ドントはベルギーの数学者であり法学者だ。 多言語、多宗教、多文化の歴史をかかえた国民の多様な意志を政治に反映させるには比例代表制しかない。政権は、選挙後の政党による話し合いで決まる。 連立政権までの話し合いは長く、1年たっても新政権が決まらなかったこともあるという。でも、小選挙区制を土台にした“男性中心・やりたい放題”一強政権より、民主主義度ははるかに上だと私は思う。 2020年6月10日

第82回  意外! スウェーデンのコロナ行政 (北欧理事会)

イメージ
  私は長年、北欧5カ国は文化的に常に一枚岩なのだ、と思い込んできた。ところが、である。 新型コロナウイルスのパンデミックが始まった3月中ごろ、ノルウェーの友人から「自宅でテレワークです。ケアサービスが中止になったので、母の世話もしています」とのメールが来た。 その数日後、スウェーデンの友人から、食事を楽しむ人たちでいっぱいのカフェテラス…自宅隔離どこ吹く風の写真が送られてきた。 さて 1 カ月後の 10 万人あたりの死者だが、アイスランド2・9人、デンマーク8・7人、ノルウェー4人、フィンランド4・4人に対して、スウェーデンはなんと 28 ・3人!  スウェーデン政府が言うには、新型コロナウイルス抑制には「ワクチン開発」か「集団免疫(国民の6~7割がウイルスに感染して抗体を持つ)」か、道は2つに1つで、スウェーデンは後者を選んだのだ。 理論的指導者テグネル医師は、「国民の自主性に任せて、病気かなと思ったら休むようにと提案しています。スウェーデンは、病欠手当が補償される歴史が長いので、すぐ休む傾向がある。それに、子どもたちには通学が、大人たちにはレイオフされないことが、心身の健康維持にとって非常に大事なので、だから、私たちはロックダウンをとらないのです」 ポスターは1988年、ノルウェーのオスロで行なわれた壮大な女性の祭「ノルディック・フォーラム」のもの。北欧の女性たちが、男女平等社会づくりへの情報交換をし、女性差別撤廃をいかに実現させるかを話し合った。講演会・討論会・女性だけの交響楽・ジャズ・ロック・演劇・映画…数万人が集結した。1994年はフィンランドのトゥルクで、2014年はスウェーデンのマルメで開催された。 予算も含めてノルディック・フォーラムを下支えするのは、北欧理事会だ。北欧5カ国3地域が閣僚レベルの協議会を開き、政策のすりあわせをする国際機関で設立は1952年。ここから北欧モデルといわれる共通政策が生まれてきた。 さて、世界の流れに逆らって自宅隔離を拒否したスウェーデン・モデルが、何年後かに北欧モデルになるのかどうか。国民の命のかかった政策だけに、行く末が気になる。 2020年5月10・25日  

第81回  130年前にボローニャでトキの声(イタリア)

イメージ
  コロナウイルスが猛威をふるうイタリア。3月 30 日時点の感染者は9万7千人超、死者は世界最多の1万779人! 中でも猖獗(しょうけつ)をきわめるボローニャやミラノは、イタリア女性解放運動の祖として名高いアンナ・マリア・モッツォーニ ( 1837~1920 ) と縁の深い土地であることを思い出した。 時は1890年 11 月 16 日(日本の江戸時代末期)。ボローニャにおいてモッツォーニはおそらくイタリアで初めて、フェミニズムに関する大演説をした。演題は「家族、町、国家における女性」。 古色蒼然たるポスターは、デザイン性豊かな現代のものとは趣が異なるが、歴史的演説会を広報するための並々ならぬ力感が伝わってくる。 「ボローニャ市民よ、人間の発展にかかわる最重要テーマを取り上げた、この新企画を評価してくれることを願う」 「今日午後2時半、公証人の場」「入場券 1人 40 チェント」「収益は、女性、貧しい家庭の人々を解放するための社会基金に使われる」「切符は、今日 10 時から 12 時まで、労働者協会(ソチエタ・オペライア:社会主義運動発祥の場)の図書館メインホールで取り扱う」 実は、アンナ・マリア・モッツォーニの名はイタリア人にも長年知られていなかった。それを世に出したのは、1970年代の女性運動家たちだった。 ボローニャの演説では「家では夫や父の支配下にあり、町では納税義務はあっても何の権利もなく、国家には意見を言うこともできない、それが女性である。女性たちよ、参政権を勝ち取ろう」と訴えたと研究者が公表している。 アンナ・マリアはミラノの貴族家庭に生まれて、5歳で全寮制の学校に入れられた。しかし偏狭な教育に我慢できず家に逃げ帰る。後は独学で、ジュセッピ・マッツィーニ、ジョルジュ・サンド、シャルル・フーリエなどを読み、女性の仕事は家事とされていた伝統に抗い、自由・平等を掲げるイタリア統一運動に傾倒していく。 1864年、 27 歳で『イタリア民法における女性とその社会的関係』を出版。 1877年、イタリア女性の参政権を求めて署名運動に立ち上がる。 1879年、ジョン・スチュワート・ミル著『女性の解放』をイタリア語に翻訳し出版。 1881年、女性参政権運動で共和主義者、急進主義者、社会主義者と手を組む。「女性の利益推進同盟」をミラノで創設。そして、こんな言葉を残した

第80回  3月8日は闘う女性の記念日 (ドイツ)

イメージ
  3月8日は国際女性デー。女性たちの闘いの歴史をふりかえり、女性であることを祝う日だ。 2年前の2018年、ドイツのベルリン市議会は3月8日を公休日と決めた。ちょうど100年前の1918年、ドイツの女性は参政権を獲得した。これにちなんで、ベルリン市議会与党の社会民主党、左派党、緑の党は祝日と定めたのだった。 そのいにしえのベルリンでつくられたのが、このポスターである(※注)。黒い服を着た裸足の女性が、真っ赤な旗を力いっぱい振って、女性参政権への闘いを呼びかける。 「女性デー。1914年3月8日。女たちに参政権をよこせ。(略)女性は労働者であり、母親であり、市民である。国や地方への納税者である。すべての女たち・働く女たちの基本的人権を求める決意はゆるがない。(略)女たちよ、少女たちよ、集まろう。1914年3月8日、日曜日、午後3時、第9女性議会に」 この歴史的ポスターは反政府的との烙印をおされ、街に貼りだされることはなかった。しかし4年後の1918年になって、第一次世界大戦で敗北したドイツの臨時政府は、女性への参政権を宣言。翌1919年、ワイマール共和国はこれを憲法に明記した。 ポスターに描かれた女性は、闘う女クララ・ツェトキン (Clara Zetkin 、1857~1933 ) がモデルに違いない。クララはドレスデン近くの村に生まれた。ビスマルク政権の弾圧を逃れてスイスやフランスに亡命。帰国後、 35 歳で社会民主党SPDの女性紙『平等』の編集にらつ腕を振るう。1907年、同志たちと第1回社会主義女性大会を立ち上げる。 3年後、デンマークでの第2回大会で「国際女性デー」を提唱。翌1911年3月、世界初の「国際女性デー」には、オーストリア、デンマーク、ドイツ、スイスを中心に、100万人以上がデモに集まった。 その後、反戦思想からたびたび逮捕された。1919年、ワイマール共和国下の新共産党に参加。1920年から 33 年まで国会議員。1933年、ヒトラー政権によって共産党が非合法化されたためソ連に亡命。同年客死。 こんな社会主義カラーのためだろう。日本政府は、性差別に憤る女たちの「国際女性デー」に冷たかった。 しかし1975年、国連が3月8日を国際女性デーと制定してからは変化が…。最近では、官庁主導で「幸せな女性たちの祭り」と命名した、やけに明るく退屈なメッセージが

第79回  34歳女性が首相に選ばれるわけ(フィンランド)

イメージ
  昨年 12 月、フィンランドにサンナ・マリン首相が誕生した。この国では女性首相は3人目だが、話題になったのはその若さ! なんと 34 歳。世界最若年の首相だった。 新首相の生い立ちは複雑だ。母親は、アルコール依存症の夫と離婚。同性パートナーと“レインボー・ファミリー”を築き、前夫との子サンナを育てた。一家は貧しくて、大卒は彼女だけだった。 北欧の政治家の多くは、高校や大学内にある政党の青年部に入って政治活動を始める。サンナも 20 代初めに社会民主党青年部で頭角を現した。2008年に、市議選の候補者リストに載った。当選はしなかったが代理議員になった。 代理議員とは、政党中心の比例代表制ならではの制度。議員が育児、病気、教育研修などで休暇を取った時、ただちに議員として職務を代行する、いわばピンチヒッター議員だ。 2012年に市議会議員に初当選した時、サンナはまだ大学院生だった。2014年に社会民主党の第2副代表となり、翌年には国会議員選挙に当選。2017年に党第 1 副代表、2019年、国会議員に再選。連立政権のアンティ・リンネ首相(社会民主党代表)が辞任したため、同党第 1 副代表だった彼女が首相に選出された。 このポスターは2015年にヘルシンキにある「フィンランド女性会議」から贈られたもので、大勢の男女が発する言葉をアートに仕立てている。 言葉の一部を紹介すると「母親が国を指揮したら、世界はよくなる」「今日も明日もフェミニズムとシスターフッドを」「自由とシスターフッドこそ社会の基盤」「フェミニズムは男にこそ薦めたい」…。 同会議は男女平等をめざす女性運動体として1911年に創設され、女性参政権100周年にあたる2006年から、「人口の 51 %は女なのだから、国会の101人を女にしよう」というキャンペーンを続けてきた。今日のフィンランドは、国会議員200人のうち女性が 94 人、 47 %だから、ほぼ目標達成だ。 それにしても、裕福とはいえない家庭に育った若い女性が、一国のかじ取り役になれたのはなぜかと考えてみると、それは、比例代表制選挙の国だからである。一方、世襲の男性議員が 10 年近くも首相の座に居座り続けるわがニッポンは、小選挙区制の国。私は、比例代表制の国に強くひかれる。 2020年2月10日