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第101回 女たちのためのホイスコーレ(デンマーク)

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  女たちの自由な魂の表現。マティスだってピカソだって、こんなに解放感あふれる女たちを描いてはいない。 「女たちのホイスコーレに支援を」とデンマーク語で呼びかけるこのポスターは、1970年代、寄付金集めに使われた。ホイスコーレは英語でハイスクールだが、高卒後のカレッジをさす。   デンマークの女性解放運動は、1970年に本格噴火した(叫ぶ芸術 31 回、 72 回参照)。ニューヨークで狼煙をあげた女性団体レッド・ストッキングに刺激された。マニフェスト(1969年)はこう始まる。 「女たちは、何世紀にもわたる一人ひとりの政治闘争を経て、いま男性の覇権からの解放に向けて団結しようとしている。レッド・ストッキングは、女たちの自由の奪還と団結に身を捧げる。人種差別、資本主義、帝国主義などの支配と搾取は、男性優位主義に由来する」 そして全ての女たちに呼びかける。 「私たちの責務は、自身の経験を分かち合うこと、既存組織の性差別を告発すること、“女性という階級”に属するという意識を広げること、である」 レッド・ストッキングは男性抜きの運動だった。デンマークでは、「女たちの家」を全土に作った。夏には「女たちのキャンプ」を成功させた。そしてたどり着いたのが「女たちのホイスコーレ」だ。教員も学生も女性。女性同士で学び、議論し、新しい女性文化の創造に励んだ。   「女たちのホイスコーレ」のヒントとなったのは、フォルケホイスコーレだ。 フォルケホイスコーレそのものは、 19 世紀中ごろ、デンマークの牧師が貧しい農民のためにつくった。「生きるための学校」と呼ばれ、北欧諸国やドイツにまで広がって今も健在だ。全寮制で、試験や成績はなく、教員と学生は平等な関係を保ち、対話や討論を通じて民主主義の力を身につける。 どこのフォルケホイスコーレも男女共学だが、レッド・ストッキングは女性だけのホイスコーレをつくった。募金活動で得た 80 万クローネ(約1400万円)で、古いホテルを買い取って改造し、1979年に開校した。 女たちは、仕事や勉学や家事に縛られにくい夏季の2週間に集まった。定員 40 人。コースは「女性の歴史」「女性の文学」「音楽と演劇」「女性への暴力」「日常生活における交通手段」「女性解放と労働組合」などなど。   1985年をピークに学生数が減って1994年に閉校となった。でも、自由な魂は

第100回 性差別撤廃へ41団体が手を携えた(日本)

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  今から 46 年前の1975年 11 月 22 日(土)、神田の共立講堂。冷たい雨が降る中、全国から 41 女性団体、2300人が集まった。プラカードを手に壇上に勢ぞろいした女性たちの写真が、翌々日の朝日新聞で報じられている。 「なくそう男女の差別・つよめよう婦人の力」をスローガンにした国際婦人年日本大会(当時「女性」を女偏にほうきを持たせて「婦人」と呼んでいた)。左派政党系の働く女性団体から主婦中心の団体まで、保革を超えての大同団結だった。読売新聞も「女性史上初の“快挙”」と書いている。 国際婦人年日本大会は、 80 代だった市川房枝委員長の下、1年がかりの準備を経てこぎつけた。参議院議員4期目の女性運動家で、女性国会議員 25 人(衆7、参 18 )の指導的立場にいた彼女だからこそ、主義や立場の異なった団体をまとめあげられたのだろう。大会で発表された政治、教育、労働、家庭、福祉の5分野の実態報告と問題提起は、実行委員会の手で政府の関係当局に提出された。   国連による世界女性会議の第1回は、1975年6月、メキシコで開かれた。133カ国3000人が、女性差別撤廃を求めて集まった。219条の「世界行動計画」が採択された。市川さんらは、その5カ月後、日本政府にメキシコでの「行動計画」を実行させるため、国際婦人年日本大会を開いたのだ。   私はまだ 20 代。「国際女性年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(「行動を起こす女たちの会」)に入会したばかりだった。 行動を起こす女たちの会は、「わたし作る人、ぼく食べる人」のハウス食品CMを、固定的男女役割を助長するものだと告発した。「世界行動計画」175条に基づく行動だった。すると「エキセントリック」「被害妄想」「こんなことより職をなくした母親のための運動を」などなど、揶揄と嘲笑の嵐に襲われた。今でいうネット炎上だ。市川房枝さんのハスキー声さえも、「ヒステリックな黄色い声」にされた。   この歴史的ポスターは、今年初め、多摩市に出かけた時、奈良喜代美さんから「あなたにあげたいとずっと思っていた。やっと務めを果たしました」と手渡された。 ポスター右上のマークは、メキシコの国連世界女性会議に採用されたエンブレムで、今も世界中で使われている。鳩は平和、イコールは平等、メスマークは女性。ニューヨークのデザイナー、ヴァレリー

第99回 売女と呼ぶのは許さない(スウェーデン)

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  ポスターの1コマ目は、女の子が、男の子から「売女め」と罵声を浴びせられてしょぼくれている。2コマ目は、女の子が「とんでもない、わたしは魔女よ!」と言い返す。3コマ目は、性的な言葉で侮辱した男の子をカエルに変え、自信をつけて歩き去る。 これは「セクハラやめろ!」(本連載 55 回)で紹介したセクハラ防止ポスターセットの中の1枚だ。2000年ごろ、スウェーデン男女平等オンブズマンが作成した。   スウェーデンは1998年から数年間、少年少女への性被害を食い止めるため、国をあげて中学生向けセクハラ撲滅プロジェクトを実行した。ポスター作戦はその一環で、中学生が描いた「女の子たちへの反撃のすすめ」だ。 ちょうどその頃、買春禁止法(1998)や子どもポルノ禁止法改正(1999)をめぐって、国会では賛否両論の論戦が火を噴いていた。 中高生たちは、学校内でセクハラにあって怒っていた。「売女」と呼ばれた女の子は、「女性を金で買えるモノと見て、使い終わったら捨てていいと言っているのだ」と憤激した。 1999年 10 月、ストックホルムのオーセ( Åsö )地区でデモが始まって、スウェーデン中に広がった。「売女と呼ぶな」の真っ赤な大旗を持って中高生が行進するさまは、今でもネットで見ることができる。スローガン「売女と呼ぶな」は、そのまま運動体の名前になった。 デモ行進だけではない。セクハラ退治ハンドブックを作成した。あちこちの学校を訪問しては全校生相手に討論会を企画した。さらには、学校で女生徒向け護身術クラスを新設すること、女性のシェルター予算を増やすことを要望書にして市議会に提出した。 中高生が学校内外で堂々と社会・政治運動に打ち込む様子を知って、日本の学校で教員だった私はキモをつぶした。   世界で最も表現の自由が保障されていると言われるスウェーデンだが、子どもポルノ禁止法は改正に次ぐ改正を重ねて、“表現の自由が保障する枠”の外に置かれることになった。保護対象は生身の子どもだけでなく、雑誌の中の写真、マンガ、アニメ、インターネット上の画像・動画、描画など「子ども一般の尊厳に関わる全て」が含まれる。 日本にも子どもポルノ禁止法はある。しかしそれは生身の子どもに限られている。そのせいか、ウェブ上の少女の性的画像の多くは日本発で、ウェブサイトの 73 %を占める(米 14 %、英3%)と