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第132回 今も昔も「封建制の呪縛」(日本)

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  2012年6月、東京の立川市でポスター展・講演会「ポスターに見るノルウェーの女性、日本の女性」があった。ノルウェーのポスターが主だったが、日本政府が作成したポスターも少し展示されていた。国分寺市議の皆川りうこさんが口を開いた。 「ノルウェーの作品からは女たちの叫びが聞こえてきて、三井さんの言う『ポスターは叫ぶ芸術』だと納得できます。でも、こっちからはいくら耳を澄ましても何も聞こえてこない。これは例外ですが…」 「こっち」とは日本のこと。そして「これは例外」は、本日の1枚である。私はドキュメンタリー映画『山川菊栄の思想と行動——姉妹よ、まずかく疑うことを習え』(山上千恵子監督)を見ていたので、「山川菊栄のポスターだ」とピンときた。 ■ ポスターをつくった労働省は、戦後、GHQの指導により社会党の片山哲内閣が新設した。その初代婦人少年局長に抜擢されたのが山川菊栄だった。山川局長は、日本女性が初めて参政権行使をした1946年4月10日から1週間を「婦人週間」と定めて、啓発活動に乗り出した。 山川菊栄はフェミニストだった。何より驚嘆したのは、その人事だ。全国にある地方出先機関の室長の任命が急がれていたが、地方から上がってきた候補は男、男、男…。「女性解放は女性の手で」と考えていた彼女は、最適の女性を探して地方行脚に出かけ、200人以上の室長ポストの全てに女性をすえた。これは21世紀の今でもありえない。 ■ 2000年、私は、大阪府豊中市の男女共同参画推進センターすてっぷの初代館長全国公募に手を挙げ、選任された。 しばらくして、全国女性関連施設の代表・職員向け研修会に出席するため、埼玉県嵐山町の国立女性教育会館(ヌエック)に出向いた。受付は「館長」と「職員」に分かれていた。私が「館長」の方へ進もうとすると、係が「ちょっと、あなた。あなたはあっちです」と「職員」の方を指さした。 会場に入ると、「館長」と指定された席に座っていたのは、私を除いて全員男性だった。 ■ さて山川局長だが、1951年、自由党の吉田茂内閣の時、「管理職試験に不合格」という理由で解雇されてしまう。後に彼女は「卑怯な闇討ち」と怒っていたという。 実は、私も同じ仕打ちにあった。館長就任3年後のこと、「体制強化のため」と称する組織変更案が、突如、上から降ってきた。次期館長試験を受けたが「不合格」とされて、職場

第131回 わが子を売られた奴隷は叫んだ(アメリカ)

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  アメリカの最も偉大な女性解放運動家、黒人解放運動家は誰か、と聞かれたら、私は躊躇なくソジャーナ・トゥルース(1792?—1883)をあげる。ポスターからこちらを見ている女性だ。 ニューヨーク州アルスター郡のハドソン川のほとりに生まれた奴隷で、イザベラと呼ばれた。1827年、ニューヨーク州が奴隷制を廃止するまで、5人の主人に売り買いされた。オランダ人入植地で育った彼女は英語が話せず、ミスが目立ち、毎日、激しく殴られた。 20代の頃、男性奴隷に恋をして子どもを何人かもうけたが、主人はこれを許さず、2人は引き割かれた。彼女は末娘を抱いて逃亡。奴隷制廃止論者でクエーカー教徒夫妻が、わずか20ドルで、主人から身柄を買い取ってくれた。 しかし、一難去ってまた一難。息子の1人が他州に売られてしまった。取り戻すために法廷闘争に打って出た彼女は、クエーカー教徒宅から法廷まで片道8キロの道を、裸足で通い続けた。やがて弁護士宅に住み込むことができ、弁護士は無報酬で弁護してくれた。そして黒人女性が白人男性に勝訴! 奇跡だった。 ■ 1843年、 イザベラは「神の 啓示を受けた」と称して、ソジャーナ・トゥルース( Sojourner Truth 、「旅人」「真実」という意味)と名前を変え、黒人解放運動、女性解放運動の行脚に出る。 彼女の業績を不動のものとしたのは、1851年5月、オハイオ州アクロンで行なわれた全米女性の権利大会での演説「私は女でないのですか」だった。彼女は、招待もされず、演説予定者でもなく、頼まれもしなかったにもかかわらず、自ら演説をし始めた。読み書きができなかった彼女は、全て即興で語った。183㌢の体躯に朗々とした声、ジェスチャーやウィットも交えた、と語り草になった。 「私は男と同じくらい筋肉があり、男と同じくらい多く仕事ができます。 この腕を見てほしい。耕し、刈り取り、皮をむき、切り刻み、草を刈ってきた、これ以上のことができる人がいますか。私は女でないのですか」 「私は13人の子を産み、ほとんどが奴隷として売り飛ばされた。わが子を奪われた母の叫びを聞いてくれたのは神だけでした。 私は女ではないのですか」 ■ ソジャーナの死から37年経って、アメリカ女性(黒人は除く)は参政権を獲得した。黒人が参政権を得たのは、さらに35年経ってからだった。 80年代、コロンビア大学学生

第130回 収入の3分の2を弱者に寄付する市長(オーストリア)

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  オーストリアで、首都ウィーンに次ぐ第2の都市グラーツは、人口30万。大学、美術館、オペラハウス、古城。その美しい街は世界遺産に指定されている。 このグラーツの市長エルケ・カーが、2023年世界市長賞に輝いた。「市議会議員および市長として、市と住民に対する無私の献身」と評価された。 国の中では裕福な都市だが、当然、貧しい人たちもいる。市長エルケ・カーも移民の多い地区で錠前屋の娘として育った。商業高校卒業後、銀行で働きながら、夜学に通った。 エルケは、幼い頃から「団結と社会正義に満ちた社会を作りたい」と思っていた。ある日、「あなたの価値観は共産主義ではないか」と先生に言われ、共産党事務所を訪ねた。以来、党活動に打ち込み、20代初めに党員になった。10年後、市議会議員に初当選。30年近く市議を続け、2021年、市長となった。 ■ ところが、オーストリア国会には今も共産党は1議席もない。国全体の共産主義嫌いの風潮は日本と似ている。なのに、なぜグラーツ市では“政権”を握ることができたのか。 道を拓いたのは、かつてのグラーツ共産党代表アーネスト・カルテネッガーだった。彼は、議員としての自らの賃金を労働者の平均賃金(現在2000ユーロ)と同じにするため、3分の2を寄付して、市の福祉サービスからもれ落ちた人たちの緊急手当に使うことにした。この「ロビン・フッド」策は党の内規となり、全議員が寄付を続けた。彼が初当選した80年代1・8%だった共産党は、2003年21%に躍進。 彼が病気で引退した後、党を率いたのはエルケだった。2017年に20・3%で第2党に。 2021年には29%をとって最大政党に。同年、共産党、緑の党、社民党による3党連立の“政権”ができて、初の共産党市長・初の女性市長が誕生した。 オーストリアに限らずヨーロッパの地方議会は、比例代表制選挙が多い。政党は男女交互の候補者リストを作るので、男女半々に近い議会となる。市長選はない。市長は連立政党間の協議で決まり、通常は市議選で最高得票をとった党の代表が就く。いわゆる議院内閣制だ。 ■ 今日のポスターは、エルケ・カー市長肝いりの企画「グラーツ女性賞」の募集に使われた。毎年、グラーツ市の女性が政治・社会的にエンパワーするようなプロジェクト1つが選ばれ、6000ユーロ(約100万円)が授与される。国際女性デーの3月8日に応募

第129回 海の向こうのトランプに反撃!(フランス)

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  3・8国際女性デーに向けて、4日前の3月4日、フランスのヴェルサイユ宮殿で両院議会が開かれ、人工妊娠中絶権を憲法に明記する議案が可決された。 その生中継が、セーヌ川対岸にエッフェル塔を望むトロカデロ広場の巨大スクリーンに映し出された。 国会議長ヤエル・ブロン=ピヴェ。マクロン大統領派の政党「再生」に属する彼女は、木槌を振り上げて、「賛成780、反対72」の大差で憲法改正が決まったことを告げた。議場はスタンディングオベーション。ほぼ同時に、トロカデロ広場にあふれる市民たちも大歓声と感涙の嵐。エッフェル塔には「私のからだ、私の選択  Mon corps, mon choix 」の文字が浮かび上がった。 議場では、憲法改正案を提出した急進左派「不服従のフランス」のマチルド・パノ議員が登壇して、世界との連帯を高らかに唱えた。「これは、私たちの勝利であり、世界の女たちの勝利です。アルゼンチン、アメリカ、アンドラ、イタリア、ハンガリー、ポーランドなどで中絶権を求めて闘う女たちの勝利なのです」 ■ フランスが人工妊娠中絶を合法としたのは1975年だ。フランス女性の権利情報センターが作ったポスター「女性の進歩の世紀 1900—2000」(写真)を見てほしい。下から6段目の「ヴェイユ法」がそれである。道を開いたシモーヌ・ヴェイユ厚生相にちなんで名づけられた。なのに、なぜ、いま改めて、憲法に? それは、米連邦最高裁が妊娠中絶権を覆す判決を下したからだという。 ■ 思い出すのは、1983年のアメリカだ。妊娠中絶権を認めた「ロー対ウェイド判決」(1973)から10年。妊娠中絶に反対するレーガン大統領(当時)によって判決が覆される危機に瀕していた。ニューヨークのブロードウェイに女たちの声がこだました——「女の身体は女が決める」「個人的なことは政治的なこと」。当時、ニューヨークのコロンビア大学に留学していた私も一緒にこぶしをあげた。 そして2017年、トランプがアメリカ大統領に就任。彼は米連邦最高裁判事の過半数を保守派にした。2022年、その最高裁は「ロー対ウェイド判決」を破棄し、女性から中絶権を奪いとった。 アメリカのようにしてなるものか。フランスは、憲法で妊娠中絶権を保障するという世界初の選択をした。ひるがえって日本。とうの昔にお払い箱となったフランス刑法の堕胎罪をまねた「明治刑法の堕

第128回 ボーヴォワールを忘れない(クロアチア)

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  1月9日は、『第二の性』の著者シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908—1986)の誕生日だ。そして、「女性の自由のためのボーヴォワール賞」の授与日でもある。 2024年の同賞は、コートジボワールのマリー・ポール・ジェグ・オクリが受賞した。アフリカのフェミニストで、農学者。「女性の権利のためのコートジボワール連盟」を通じて、女たちのための農業の手法を開発し、提供している。女たちが野菜を生産販売して得たお金は、子どもたちの教育費となり、それが新たな解放を生み出しているという。ボーヴォワールの提唱した「経済の男女平等」への闘いの実践者であることが受賞理由だった。 この賞は、2008年、ボーヴォワール 生誕100年を記念し、ジュリア・クリステヴァ(ブルガリア生まれのフランスの哲学者)によって創設された。毎年、女性の自由の擁護と発展のために世界的な貢献をした個人、団体、作品、活動に与えられる。副賞160万円。 ■ ボーヴォワールの『第二の性』は、フェミニズムのバイブルだ。和訳本を私が手にしたのは、70年代、就活を考え始めた大学3年の時だった。『第二の性』は、女たちが、この社会でどう受け止められてきたかを生物学的、歴史的に究明していた。「女であることの不遇」に直面していた私は、苦しくなって読み進めなかった。先日、もう一度、本を開いてみた。 プラトン「女ではなく男につくってくれたことで、神に感謝した」 アリストテレス「生まれ出るすべての存在において、男性的なものである運動原理の方がすぐれていて、崇高である」 聖トマス「女は男の支配下に生きる定めであって、女には自分の主人に対していかなる権限もないのは明白である」 ルソー「女は男に譲歩し、男の不当な仕打ちにも耐えるようにできているのだ」 バルザック「女の運命と唯一の栄光は男の心をときめかすことである」 オーギュスト・コント「女とプロレタリアは行動の主体にはなりえないし、なるべきでもない。また、なりたいとも思っていないだろう」 クソーッ! 怒りで、体が熱くなった。 ■ 今日のポスターは、2008年9月26日、クロアチアの首都ザグレブで催された「ボーヴォワール生誕100周年記念大会」を知らせたもの。主催したクロアチア女性学センターの代表ラダ・ボリッチから寄贈された。女らしくあれと決めつけた先人たちに対する彼女の叫び「私は私らしくある