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第113回 ユーモアにくるまれた怒りの芸術(ノルウェー)

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  「ノルウェーに行ってみたい」という人たちに押されて、「男女平等の母国を見に行くツアー」を企画した。20人の視察団に最も強烈な印象を与えた場所が、ノルウェー国立女性博物館だった。20年ほど前になる。 「カミラ・コレットの笑い:女性史150年」という特別展が催されていた。女性が無権利だった19世紀から、男女平等に近づいた現代までのノルウェー女性の150年を再現する芸術群だった。女性芸術家たちが創った19世紀のノルウェー家庭の光景が評判を呼んでいた。 床に這いつくばって、鍋から床に吹きこぼれる煮汁を拭く薄汚れた女性の人形。天井から黒い鉄の大きな重りがぶら下がっている。それには「女というものは何もいいことを成さない」とある。北欧に影響を与えた神学者マルティン・ルターの言葉だという。 タイトルのカミラ・コレットは、元祖フェミニスト小説家。20代で結婚したが、夫が死んで子ども4人が残った。家を売り、3人を里子に出したが、それでも貧乏から抜け出せない。そこで、かの有名な『知事の娘』を出版した。当初は匿名だったそうだ。 ■ 今日のポスターは、博物館の売店で見つけた。「そして神は女性をつくった:女性のからだと理想の美しさ」と題された芸術作品群が、全国巡回展をした時のものだ。博物館管理人のイングン・オーステブルによると、「下着から上着まで、ヘアから靴まで、女性を縛るファッションの数々が『ユーモアにくるまれた怒り』で表現されています」。 ピンクのトルソー(胴体のみの彫刻)は、博物館のあるコングスヴィンゲル市在住のテキスタイル彫刻家シッセル・モーがつくった。 女性像といえば、昔から胸と性器を隠した「恥じらいのポーズ」が定番だ。フィレンツェ・ウッフィッツィ美術館にあるボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』しかり。一方、ポスターの女性像は腰のくびれがないずん胴で、ヒップは小さく、胸も性器もバッチリだ。 かの神学者マルティン・ルターは「男のヒップは小さい。それゆえ賢い。女のヒップは大きい。だから家にじっとすわっている仕事に向いている」などという超非科学的な言葉を残しているそうだ。 ■ カーリ・ヤコブソン館長の「今日の、当たり前と思っている権利は、過去の無名の女性たちの闘いの末にあるのです。それを知らせるために、この博物館はあります」が、心にしみる。1995年に開館。198

第112回 からだは自由だ!(フランス)

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  高校教員だった頃、1人の生徒が妊娠した。妊娠中絶を選ぶという。相談に乗っていた私は、ひどく狼狽した。一緒に悩んだ。手術なら一刻も早くしないと…。手術費用のカンパが密かに始まった。 あれから40年近く経ったが、女子高生が出産直後の赤ん坊を遺棄したり、殺害したりで逮捕というニュースに接すると、教員時代を思い出す。 セックスに妊娠はつきものだから、手軽で安全な避妊や妊娠中絶が不可欠だ。ところが、世界で何年も前から普及している避妊パッチ、避妊リング、避妊注射、避妊インプラント(皮膚にはめ込むスティック)、緊急避妊ピル(モーニング・アフター・ピル)などを、日本政府はまだ承認しない。90カ国以上で使われているピル(経口避妊薬)ですら手軽に買えない。しかも高い。 それゆえ、日本ではコンドームが主流なのだが、予期せぬ妊娠は避けられない。そうなると非常時には妊娠中絶しかない。日本では「搔爬(そうは)法」という手術がなされる。全身麻酔した身体を産院の手術台に横たえ、子宮けい管を拡張し、子宮から妊娠組織を掻き出す。配偶者の同意も必要で、しかも10万円から20万円はかかる。そこで、冒頭のようなカンパとなる。 世界を眺めれば、もう「手術」から「妊娠中絶薬」に変わっている。フランスが1988年に世界で初めて採用して以来、80カ国以上の国々で普及している。安全で効果がある上、780円と格安だ(WHO)。 日本の厚生労働省も、最近やっと中絶薬を承認すると言い出したのだが、「配偶者の同意が必要だ」などという。なんたる父権主義!  今日のポスターは、妊娠中絶の先進国フランスのもの。このカトリックの国は、気の遠くなるほど長い間、妊娠中絶を禁じてきたが、1975年、厚生大臣シモーヌ・ヴェイユの提案で妊娠中絶自由化法が成立し、フランス女性の悪夢が消えた。 抱き合うからだの美しさ。フランス家族計画運動MFPFがつくった。フランス全土67市町村に支部を持ち、120の事務所で、中高生にセックスと生殖に関する権利の普及活動をしている。写真の下のフランス語は「からだは自由だ」。その下の緑のバナーは「セックス、避妊、妊娠中絶」。 楽しく幸せなセックスは避妊と妊娠中絶の自由から、とうたっている。 (2022年11月10日号)

第111回 国際女性デーの栄枯盛衰(ノルウェー)

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  今夏の参院選で、女性は候補も当選も過去最多だった。非改選を含め参院の女性議員は64人、25・8%となった。この候補の中に「性産業を法的に認め、セックスワーカーの権利擁護を」と唱えた女性がいて、ノルウェーの今年の国際女性デーを思い出させた。 ノルウェー女性の地位は世界トップクラスなのだが、それでもなお毎年、女性団体、政党、労組などによる実行委員会が、1年間会議をして方針を決め、国際女性デーに爆発させる。今年のオスロ実行委員会で激しい論議の的になったのは、セックスワーカーの権利だった。 2009年、ノルウェーは性を買う側(ほとんど男)を処罰し、買われる側(ほとんど女)を処罰しないとする法律を制定した。これが今年、賛否の渦を巻き起こした。法に反対するグループは「買う側を処罰する法はセックスワーカーの生きる権利の侵害」と主張。侃々諤々の末、「カネで性を買う行為を犯罪とする現在の法律こそ大事」とする主張が通った。承服できないセックスワーカー側はカウンター・デモをした。 ノルウェーの国際女性デーは長い歴史を持つ。1915年、ソ連の平和運動家コロンタイが、オスロの女性デーで演説した。その後2つの世界大戦があって、女性デーどころではなかったが、70年代になると盛り上がった。本連載67回のように、妊娠中絶の合法化が主なテーマだった。「産む、産まないは女性自身が決める」とのスローガンを掲げ、1978年の女性デーには、オスロに2万人を超す女たちが集まった。後、妊娠中絶合法化が達成された。 1979年、男女平等法が施行されて男女平等オンブッドが誕生。1981年、ブルントラントが初の女性首相となり、閣僚の4割以上が女性になった。1969年9%だった女性国会議員が、1987年には36%になった。そして1988年、男女平等法にクオータ制が明文化された。 女性が社会の中枢に入っていくと同時に、女性デーは勢いを失っていった。今日のポスターはちょうどその頃、1986年3月8日のもの。ノルウェー南東部の都市ハマールの女たちが作った。 タイトルは「女たちは、できる、必ず」。メスマークの円に怒りのこぶしが女性解放運動のシンボルなのだが、このポスターには肝心の怒りのこぶしがない。女性が、弱体化した女性解放運動を必死に立て直そうとしているのである。 21世紀になって妊娠中絶法改悪の動きとともに、女性デーは息

第110回 看護師と助産師に投資を(WHO)

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  型コロナが世界に猛威を振るい始めた2年前、WHO(世界保健機関)からこんなポスターがネットに流れた。 「看護師と助産師に投資せよ、健康のため、男女平等のため、経済発展のため」 WHOは「看護師・助産師の国際年2020」を新設し、次のような提言を世界に向けて発表した。 「上司から敬意を払われていないと思う看護職36%、自分の意見に耳を傾けてほしいと思う看護職32%」 「看護職に影響を与えるジェンダー間の賃金格差を改善せよ」 「国の保健政策決定の場に、看護職の視点を取り入れよ」 ナイチンゲールが生まれて200年経ったイギリスでは、WHOの国際年に呼応してNHS(国営医療保健サービス)が様々な啓発、イベントを打ち出した。弱者に注がれる温かい眼差しにホロリとさせられる。 「助産師主導のCOVID-19緊急対応電話システムを新設する」 「(移民など)英語を使えない妊婦へ職員が出前する」 「ホームレスの患者を支援する」 「聾唖者を支える…」 当初欧米は、イタリアをピークに感染者も死亡者数も多かった。当時の麻生太郎財務相は「日本は民度が違う」などと欧米をあざ笑った。 しかし、時は流れ、日本は感染者数1879万7522人、死亡3万9604人と「世界最高水準」になった(いずれも8月31日NHK発表)。慢性的な人手不足で看護職の長時間労働が続くが、看護師の月収は、OECD平均よりも月8万円以上も低いと報道されている。 何より、政策決定の場にいる女性の少なさは、驚愕ものだ。コロナ関係だけを見ても、日本感染症学会理事18人の全員が男性。厚生労働省「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の12人のうち女性は2人。厚生労働省「新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード」18人のうち、女性は2人。内閣官房「新型インフルエンザ等対策有識者会議 新型コロナウイルス感染症対策分科会」の16人の中でも、女性はたったの2人なのである。 イギリスで助産師をする小澤淳子さんは言う。 「日本では、陽性の女性が、他に理由もなしに帝王切開されています(陽性女性の帝王切開率65%以上)。陽性になる前に出産をと陣痛誘発を受けさせられています。女性が陽性の時に生まれた赤ちゃんは母子分離をさせられます。WHOなどが、母子分離は母親や子どもへの弊害が大きいので反対声明を出しているというのに、です。女性のからだに関

第109回 スカートをはいた女が医者になった(フィンランド)

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  ポスター「スカートゆえに」の女性はロージナ・ヘイケル。フィンランド初・北欧初の女性医師だ。 1842年、フィンランドのヴァーサで生まれた。子どもの頃、父を亡くして家庭は困窮。17歳で学校を中退せざるを得なかった。一方、医学の道に進んだ兄2人は、学問を続けた。兄たちのように医師になりたかったロージナは、夢を捨てきれなかった。が、当時のフィンランドには女性を受け入れる大学などなかった。 でも彼女はあきらめない。隣国スウェーデンのストックホルム体操研究所に入学し、理学療法を学んで帰国した。ヘルシンキ公立病院で産婆コースを修了。再びスウェーデンに戻ると解剖学・生理学を学んだ。 1870年、ヘルシンキ大学は遂に聴講生ならと彼女を受け入れた。翌年、彼女は医学部への特別許可を与えられたのだが、女性が解剖実験をすることは「不適切」とされていた。そんな彼女を、解剖学のジョージ・アスプ教授が助けた。教授自身の研究室で、特別に彼女に解剖の実験をさせた。 1878年、ロージナは外科、内科、眼科、病理学の試験に全て合格。医学部を卒業した。35歳だった。彼女の医師資格は法的に正式なものではなかったが、故郷ヴァーサで個人医院を営んだ。1882年、反対の嵐の中、女性と子どもだけを診ることを条件にヘルシンキ地区管轄医師となった。1884年、医師会はやっと彼女を会員にした。 ロージナは熱心な女性解放運動家だった。女子にも男子と同じ教育を与えよと説き、男女同一労働同一賃金を唱えた。1888年、医師会で、公娼制反対の演説をぶった。女学生に奨学金を付与する団体を立ちあげた。フィンランド初の女性解放運動団体創立にも尽力した。 日本のロージナこと荻野吟子は、1851年、熊谷市に産まれた。彼女が医師となったのは1885年。ロージナと同じ30代半ばだった。 18歳で結婚するが、夫から淋病を移されて離婚。男性医師による治療の屈辱から「女医になる」と決めた。医術開業試験の願書を毎年出しては断られ続けたが、1885年、遂に受験が許可された。もちろん合格。日本最初の公認女性医師が誕生した。ロージナ同様、熱心な女性解放運動家でもあり、日本キリスト教婦人矯風会に入会して公娼制反対を訴えた。 それから140年余り。いまフィンランドの女性医師は全医師の58・3%。日本は20・3%。日本の女性医師の割合はOECDの中で最も少ない

第108回 女性解放の先輩ロシアの堕落(ノルウェー)

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今から20年ほど前のノルウェー訪問のことだった。若い頃、女性解放運動家だった国立大学図書館館長マグニ・メルヴェールは、昔のポスターを探し出してきて私の前に広げた。 「これ、子どもを抱えたスカーフの女性がシンボリックで、ロシアのポスターのように見えます。でも70年代のノルウェーのものです。ノルウェー語で『女たちよ、メーデーでは女たちの要求をすべきだ』とあります。あの頃まで、女性運動はロシアが確かにノルウェーの遥か先を走っていたのです」 ロシア革命を指導したレーニンは1918年、憲法で女性の権利を定めた。女性は男性と同様に雇用され続ける権利も認められた。公立保育園も整えられた。妊娠中絶も合法化された(スターリン時代は再び禁止)。国際女性デーは1913年に始まって、1922年から国民の休日になった。 こうしたソ連の家族政策の礎を築いたのが、平和運動家で革命家のアレクサンドラ・コロンタイだ。彼女は、革命前、北欧諸国を渡り歩き、スウェーデンではその過激な反戦思想ゆえ逮捕されたという。後にノルウェーに滞在し、その労働運動に多大な影響を与えた。 革命後は祖国に戻って女性初の閣僚に着任したが、政権から外されてノルウェー駐在大使としてノルウェーに1930年まで住み続けた。女性としては世界初の大使だった。 ノルウェーの女性参政権は1913年だからソ連より4年早いのだが、ソ連より早かったのはこの参政権だけ。1939年までのノルウェーでは、雇用主は女性が結婚したらクビにすることができた。妊娠中絶は1978年まで違法だった。 60年代、ノルウェーの女たちはどっと職場に躍り出たものの、保育所は5%ほどの狭き門。女たちは自治体に要求をつきつけ、地方選挙に立候補した。女子学生や若い女たちは、新しい団体を次々に作っては妊娠中絶合法化に向けて戦闘を開始した。 労働党や左派政党の女たちは党内の男性主導体制と闘った。1965年、労働党の政策方針に初めて「男女平等の推進」が記された。この頃のノルウェーの女たちが、レーニンやコロンタイの国を憧れのまなざしで見ていたのも無理はない。 今やノルウェーは世界屈指の男女平等国となった。 かつて「鳩」(平和)と「子どもを抱えて働く女性」(家族政策)で北欧女性に強烈な影響を与えた隣国ロシアは、紆余曲折あってスターリンの恐怖の大粛清時代を通り、さらに曲折を経てプーチンの時代

第107回 北欧モデルを今こそ!(イギリス)

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「セックスを買う行為は男性をさらに暴力的にする」「売買春は女性をモノ化する」。 買春処罰を求める英国の運動体「北欧モデルを今こそ!」*は、こんなスローガンを掲げたポスターを作った。 北欧モデルとは「セックスを買う行為を犯罪とする一方で、買われる側の人々(多くは女)の罪を問わず、そこから抜け出すための支援をする」という法律だ。スウェーデン(1999)、ノルウェー(2009)、アイスランド(2010)、カナダ(2014)、北アイルランド(2015)、フランス(2016)、アイルランド共和国(2017)、イスラエル(2019)が施行した。EUも立法を促す議決をした(2014)。 私の知るノルウェーでは「買春処罰」はウン十年間も議論が続けられてきた。女性2人ペアになった命がけのアクションが忘れられない。1人が客と買春交渉をしている時、もう1人が客の車体に型抜きスプレーで「買春しようとした男」と書いて撮影。新聞社は写真をデカデカと掲載し「オスロは安心して買春できる町ではない」とコメントをつけた。そのあと女性議員が超党派で買春処罰法案を出した(否決)。 80 年代のことだった。 2000年代、ナイジェリア移民のオスロ市内での売春が社会問題になった。女性や子どもの人身売買・性搾取に関する「パレルモ議定書」を批准した頃であり、貧困・格差とつながった。世界初のスウェーデン買春処罰法も刺激となった。こんな買春反対の空気をキャッチしたのは、小政党の左派社会党や中央党だった。 2008年、左派中道連立政権(労働党・中央党・左派社会党)は、女性が過半数を占める内閣で「買春処罰法」を成立させた。「国内外で性的サービスを買うことは違法、性的サービスを売ることは合法」「性的サービスを売る人から利益を得ること、場所を提供することは違法」「性的サービスの宣伝は違法」等が明記されている。 さて今、日本では、AV(アダルトビデオ)出演による性被害が深刻な問題になっていて、4月に突如、自公与党からAV新法案が飛び出し、瞬く間に衆院を通過した。条文には「撮影時の性交・性的虐待禁止」はない。「性交を合意させる契約は無効」もない。あるのは「撮影時、性交を強制してはならない」である。 その道のプロから言葉巧みにスカウトされた女性たちは、契約書に“自らすすんで”サインする。屈辱的性行為を撮影された動画はネットで世界に

第106回 「ウクライナのためのクラクフ」の女たち(ポーランド)

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ポーランドのクラクフは、ロシアの軍事侵攻以来、ウクライナ女性たちが身を寄せる世界一の「ハブ港」となっている。フェイスブックページの「ウクライナのためのクラクフ」はメンバー3万5000人。助けを求める声、助けますという声であふれ返る。 「大家族向きの家を数カ月間、無料で貸します。数家族一緒でもOK」 「キエフから車で逃れてきた数人をアパートに泊めています。近くに無料駐車できる所ありませんか?」 「先週まで住んでいた所を出なくてはいけない女性がいます。一家は5歳の息子と祖母、猫1匹(おしっこのしつけ済)。彼女の仕事はITなのでネット環境必須」 「戦火で家族全員を失い、犬4匹(1匹は足に怪我)と生き延びた女性を泊めています。彼女も足を撃たれましたが、車を押して犬と散歩したいそうです。乳母車または似た車を求む」 「2組の母子を預かっていますが、もう1組受け入れOKです」 こんな切実な投稿を読んでいたら「クラクフは女だ!」という巨大なポスターを思い出した。クラクフを訪問した3年前の春、広場に貼られていた。目を奪われた私は、市役所に駆け込み、受付で「あのポスターは何ですか?」と聞くと、担当した職員を紹介してくれた。 「昨年(2018年)は、ポーランド女性参政権100周年。クラクフの有名無名の女性たちを知らせるポスター展を企画しました。今年も女性デー前後の数カ月間、広場に展示しているのです」という。   クラクフ女性センターを訪ねると、所長は「女性参政権なら、クラクフ郵便局職員のヴワディスワヴァ・ハビヒトを忘れてはなりません」と教えてくれた。 「ハビヒトは1903年、女性職員のための生活協同組合を立ち上げ、1911年から女性参政権運動に力を入れて、1918年の女性参政権獲得に貢献しました。でも実は、彼女を有名にしたのは参政権より、独身女性が安心して住める安価な住居を造ったこと。働くシングル・ウーマンのために集合住宅を誕生させたんですよ、第一次大戦より前に。『忍耐と連帯と』が彼女のモットーでした」 かつてロシアなど強国によって国を奪われてきたポーランド。母国語すら使えなかった時代、ポーランド民族の命綱は「非合法運動」だった。キュリー夫人で知られるノーベル物理学・化学賞のマリア・スクウォドフスカが通った学校も、個人の住宅を解放してつくられた「非合法学校」だったという。 難民たちに住ま

第105回 プーチンは究極のDV男だ(ウクライナ)

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2月24 日、ロシアのウクライナ侵略が始まると、隣国ポーランドのスワヴォーミラ・ヴァルチェフスカは直ちにウクライナ国旗をつけた顔写真を世界に発信した。 彼女が館長を務める「クラクフ女性センター」を私が訪問したのは3年前の今頃だった。以来ネットでおしゃべりを交わしてきた。2月24日以降、彼女のフェイスブックは、ウクライナ救援情報であふれかえっている。   今日の1枚は、首都キエフ在住のイーナ・コーノノヴァが2月25日に投稿した写真である。 「投稿」を、英語でPOSTという。だから、これこそが本当のポスターだ。イーナは、ロシア襲撃後、「パニックになるより創造力を」と、ガムテープでガラス窓の修理にかかった。「戻れる日まで、このままにしておきます」と写真を撮った。それが遠い日本の私にまで届いた。胸がつぶされそうになった私は、イーナに直接そのことを伝えた。   この写真は、女性運動家たちにはデジャヴ( déjà-vu 、既視感)だ。そう、DV夫によって破壊された家具調度を妻が修理した後とそっくりなのだ。DV男は、自分だけが偉く正しいと思い込んでいる。言う事を聞かないやつは、徹底して力でねじふせる。自分の暴行を正当化するためなら、平気で嘘をつく。自分の悪業を他人のせいにする。自分こそ被害者と言いつのる。 プーチンこそ究極のDV男だ。   数日後、イーナは、娘夫婦とその幼い子ども総勢5人で、友人宅の地下シェルターに逃げ込んだ。 「死に直面していますが、ありがたいことに生きています」 「ああ、私たちの空、私たちの大地、私たちの祖先。でも、私たちの子孫は私たちが生き延びることにかかっています」 「夕べは食欲がなく何一つ食べられませんでした。これで無理なく痩せられます」 「ル・シルポ(キエフのスーパーマーケット)やカフェ…。また、あの日常が戻ってくるはずです」   一方、ポーランドのスワヴォーミラは、私にこう書いてきた。 「ウクライナからポーランドに逃れてくる人たちの多くは、クラクフにやってきます。3月10日には30万人が到着。クラクフは貧しい人たちも多い町ですが、自分たちの家に招き入れ、部屋を提供し、温かい心を捧げています。私は、クラクフを誇りに思います」   ポーランドは 80 年ほど前、ナチスドイツに蹂躙され、耐えに耐えた。そのうえ女性は家父長制のもとで「もうひとつの闘い」にも耐

第104回 女戦士シャールカの子孫たちは戦う(チェコ)

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スメタナの交響詩「わが祖国」。あの「モルダウ」の名旋律の次の曲「シャールカ」が本日のテーマである。 チェコの民話によれば、偉大な女性預言者リブシェ亡きあと、男たちが女たちに乱暴狼藉を働くようになった。怒り心頭に発した女戦士シャールカは、男たちに酒を大盤振る舞いしたのち角笛の合図で女兵士たちを集め、男たちを皆殺しにする。 シャールカの子孫である現代のチェコ女性たちもまた、男たちの暴力にさらされている。 昨年、「 18 歳以上の女性の2人に1人が性暴力や性的ハラスメントに、 10 人に1人が強姦にあった」という調査結果が公表された。これに、現代のシャールカたちでつくる非営利団体「プロフェム」が怒った。   首都プラハの住宅地区にある「プロフェム」のオフィスを私が訪問したのは、3年前のちょうど今頃だった。インターンも含めて 10 人ほどの女性が、広く明るい部屋でパソコンに向かっていた。 その時、頂戴したポスターを見ると、女性が射撃の的になっており、足元から流れる血が、真っ赤なハートにつながっている。ハート横には「愛しているから、つい殴ってしまう」。暴力男のよくある言い訳で、これが加害者を増長させ、暴力が繰り返される。そんな日常を描いている。 プロフェムは、調査、啓発広報などだけでは解決に結びつかないと考えて、昨年末、性暴力の犠牲者に特化した大掛かりな救済装置「総合センター」を造るプロジェクトをスタートさせた。ホームページを見るとネット募金を始めたばかり。2月 18 日現在で4万6450コルナ(約 25 万円)が集まったと報告されていた。寄付者にノルウェー政府が名を連ねている。さすがだ。 「性暴力被害者の多くはトラウマを一生引きずります。海外では当たり前の総合センターですが、残念ながらチェコにはありません」と担当者は言う。 待ったなしの緊急救助から始まって、カウンセリング、心理療法、刑事法の支援、医療的治療、社会福祉サービス…やるべきことは世界中同じだ。   では日本は? 日本のシャールカ、野口登志子さん(元鳴門市人権推進課副課長)は、行政府の生ぬるい対策に怒って、被害者支援の法人「白鳥の森」を徳島に発足させた。「公的支援はハードルが高く、一時保護期間も短く実態に合わない。公がやるべきことを私たちがやっているのです」。 日本には、 66 年も前につくられた売春防止法に依拠し

第103回 女の拳で「女性の家」を造る(デンマーク)

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世界中で、女性たちが女性であることに喜び、女性差別撤廃に声を上げる日、国際女性デー(3月8日)が、もうじきやってくる。 国際女性デーは、1910年8月、デンマークでの国際社会主義女性大会で提唱された。世界 17 カ国から女性たちが、汽車や船でやってきた。議論に次ぐ議論の末に活動目標を「各国の女性運動組織の国際的連携」「各国での女性参政権獲得」「母子福祉政策の確立」の3本にしぼった。最終日、「女性参政権獲得の闘いを、メーデーのように世界中でいっせいに」と宣言した。   翌1911年3月、「国際女性デー」が世界各地で初めて挙行された。デンマーク、オーストリア、ドイツ、スイスを中心に100万人以上がデモと集会に参加したそうだ。 デンマークは当時の記録をネットで公開しているのだが、それによるとコペンハーゲンの第1回女性デーは、デモ行進後の集会に「公民館」へ600人、「職人組合館」へ900人も押し寄せて会場に入りきれず、急遽野外集会となった。女性に選挙権がないことへの激しい怒りと悔しさ、燃えたぎる闘争心が込められた宣言文が採択された。 デンマーク女性は、それから4年後の1915年に参政権を獲得した。   このポスターは半世紀以上経た1979年、アンデルセン生誕の地オーデンセでの国際女性デーのもの。デンマーク民主党女性協会、全国青年教育協会、デンマーク共産党、社会民主党青年部、左派社会党、「女性の家」協会など加盟団体が多彩なのが印象的。女性解放団体「レッドストッキング」が元気はつらつな頃だ(「叫ぶ芸術」 72 回参照)。 女性が握りこぶしで壁をぶち破っている。目を引くのは「闘争の日 KAMPDAG」というデンマーク語。国際女性デーを「国際女性闘争デー」と呼んでいるのである。この年のオーデンセは、闘いの目標を「女性の家」創設に絞っていた。 70 年代前半、コペンハーゲンなどは女たちが空き家を占拠して「女性の家」を造り、女性解放運動の拠点にもなった。そんな場をオーデンセにも作ろう、と呼びかけたのだ。 午前 10 時、オーデンセ市民の憩いの場ムンクムーセ公園に集合。演説、デモ行進。その後、演劇、音楽、展示、女性だけのパーティ … といった催しが、市のあちこちで夜中の1時まで続いた。   ちなみに日本だが、1911年に大逆事件で幸徳秋水、管野スガらの死刑が執行され、「窒息の時代」がずー

第102回 男女半々こそ政治のアタリマエ(フランス)

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さすがは芸術の国。人々の眼を奪うシンプルさ。これは、 1998 年 3 月 8 日の国際女性デーにむけて、フランス政権与党が打ち出した傑作ポスター「彼女たち抜きの変革なんてあり得ない」である。   フランス社会党は、 1994 年、完全比例代表制で行なわれる EU 議会選挙で、候補者リストを男・女・男・女 … と交互にする 50 %クオータ制を実行した。 95 年、ジャック・シラク大統領は、「男女同数監査委員会」から憲法改正を含む提言を受けた。 96 年、女性の権利相だったイヴェット・ルーディなど女性議員が週刊誌『レクスプレス』に「パリテのための 10 人宣言」を発表。世論は一気に盛り上がった。 97 年、総選挙で「女性候補 30 %以上」を実行した社会党は支持を集め選挙に勝った。しかしながら、女性は全国会議員の 1 割にすぎなかった。 97 年、大躍進したフランス社会党は、リオネル・ジョスパン首相のもとで、社会党・共産党・緑の党などによる左翼連合政権を成立させた。大統領は共和党のシラクだったので、この政権は「コアビタシオン」と呼ばれた。コアビタシオン( Cohabitation )は「同居カップル」のこと。保守の大統領と革新の首相との共存政治体制をも、コアビタシオンと名づけたところが面白い。ジョスパン首相は、施政方針演説で「男女同数制 ( パリテ ) を実現するために憲法を改正する」と宣言した。 イヴェット・ルーディらの社会党は、 1982 年に「地方選の 25 %クオータ制」法案を作ることに成功したものの、憲法院から違憲とされる苦い経験をした。違憲判決を跳ね返し乗り超える論理が必要だった。理論家の中心に、ジョスパン首相の妻であり哲学教授のシルヴィアンヌ・アガサンスキーがいた。その主張を私流にごく簡便に表現すればこうだ。 「そもそも人類は女性と男性でなりたっている。女性抜きの社会なんてありえない。だから私たちフランス社会は、差別をなくすために暫定的に女性議員を増やそうというクオータ制ではなく、女性と男性が政治権力を半々に分かち合うための法をつくるべきだ」   こうして 1999 年、憲法にパリテ(男女同数)条項が入れられ、翌 2000 年、通称パリテ法という男女半々選挙法ができた。今日のポスターは、その歴史的大改革運動の表紙である。 2022年1月1日

第101回 女たちのためのホイスコーレ(デンマーク)

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  女たちの自由な魂の表現。マティスだってピカソだって、こんなに解放感あふれる女たちを描いてはいない。 「女たちのホイスコーレに支援を」とデンマーク語で呼びかけるこのポスターは、1970年代、寄付金集めに使われた。ホイスコーレは英語でハイスクールだが、高卒後のカレッジをさす。   デンマークの女性解放運動は、1970年に本格噴火した(叫ぶ芸術 31 回、 72 回参照)。ニューヨークで狼煙をあげた女性団体レッド・ストッキングに刺激された。マニフェスト(1969年)はこう始まる。 「女たちは、何世紀にもわたる一人ひとりの政治闘争を経て、いま男性の覇権からの解放に向けて団結しようとしている。レッド・ストッキングは、女たちの自由の奪還と団結に身を捧げる。人種差別、資本主義、帝国主義などの支配と搾取は、男性優位主義に由来する」 そして全ての女たちに呼びかける。 「私たちの責務は、自身の経験を分かち合うこと、既存組織の性差別を告発すること、“女性という階級”に属するという意識を広げること、である」 レッド・ストッキングは男性抜きの運動だった。デンマークでは、「女たちの家」を全土に作った。夏には「女たちのキャンプ」を成功させた。そしてたどり着いたのが「女たちのホイスコーレ」だ。教員も学生も女性。女性同士で学び、議論し、新しい女性文化の創造に励んだ。   「女たちのホイスコーレ」のヒントとなったのは、フォルケホイスコーレだ。 フォルケホイスコーレそのものは、 19 世紀中ごろ、デンマークの牧師が貧しい農民のためにつくった。「生きるための学校」と呼ばれ、北欧諸国やドイツにまで広がって今も健在だ。全寮制で、試験や成績はなく、教員と学生は平等な関係を保ち、対話や討論を通じて民主主義の力を身につける。 どこのフォルケホイスコーレも男女共学だが、レッド・ストッキングは女性だけのホイスコーレをつくった。募金活動で得た 80 万クローネ(約1400万円)で、古いホテルを買い取って改造し、1979年に開校した。 女たちは、仕事や勉学や家事に縛られにくい夏季の2週間に集まった。定員 40 人。コースは「女性の歴史」「女性の文学」「音楽と演劇」「女性への暴力」「日常生活における交通手段」「女性解放と労働組合」などなど。   1985年をピークに学生数が減って1994年に閉校となった。でも、自由な魂は

第100回 性差別撤廃へ41団体が手を携えた(日本)

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  今から 46 年前の1975年 11 月 22 日(土)、神田の共立講堂。冷たい雨が降る中、全国から 41 女性団体、2300人が集まった。プラカードを手に壇上に勢ぞろいした女性たちの写真が、翌々日の朝日新聞で報じられている。 「なくそう男女の差別・つよめよう婦人の力」をスローガンにした国際婦人年日本大会(当時「女性」を女偏にほうきを持たせて「婦人」と呼んでいた)。左派政党系の働く女性団体から主婦中心の団体まで、保革を超えての大同団結だった。読売新聞も「女性史上初の“快挙”」と書いている。 国際婦人年日本大会は、 80 代だった市川房枝委員長の下、1年がかりの準備を経てこぎつけた。参議院議員4期目の女性運動家で、女性国会議員 25 人(衆7、参 18 )の指導的立場にいた彼女だからこそ、主義や立場の異なった団体をまとめあげられたのだろう。大会で発表された政治、教育、労働、家庭、福祉の5分野の実態報告と問題提起は、実行委員会の手で政府の関係当局に提出された。   国連による世界女性会議の第1回は、1975年6月、メキシコで開かれた。133カ国3000人が、女性差別撤廃を求めて集まった。219条の「世界行動計画」が採択された。市川さんらは、その5カ月後、日本政府にメキシコでの「行動計画」を実行させるため、国際婦人年日本大会を開いたのだ。   私はまだ 20 代。「国際女性年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(「行動を起こす女たちの会」)に入会したばかりだった。 行動を起こす女たちの会は、「わたし作る人、ぼく食べる人」のハウス食品CMを、固定的男女役割を助長するものだと告発した。「世界行動計画」175条に基づく行動だった。すると「エキセントリック」「被害妄想」「こんなことより職をなくした母親のための運動を」などなど、揶揄と嘲笑の嵐に襲われた。今でいうネット炎上だ。市川房枝さんのハスキー声さえも、「ヒステリックな黄色い声」にされた。   この歴史的ポスターは、今年初め、多摩市に出かけた時、奈良喜代美さんから「あなたにあげたいとずっと思っていた。やっと務めを果たしました」と手渡された。 ポスター右上のマークは、メキシコの国連世界女性会議に採用されたエンブレムで、今も世界中で使われている。鳩は平和、イコールは平等、メスマークは女性。ニューヨークのデザイナー、ヴァレリー

第99回 売女と呼ぶのは許さない(スウェーデン)

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  ポスターの1コマ目は、女の子が、男の子から「売女め」と罵声を浴びせられてしょぼくれている。2コマ目は、女の子が「とんでもない、わたしは魔女よ!」と言い返す。3コマ目は、性的な言葉で侮辱した男の子をカエルに変え、自信をつけて歩き去る。 これは「セクハラやめろ!」(本連載 55 回)で紹介したセクハラ防止ポスターセットの中の1枚だ。2000年ごろ、スウェーデン男女平等オンブズマンが作成した。   スウェーデンは1998年から数年間、少年少女への性被害を食い止めるため、国をあげて中学生向けセクハラ撲滅プロジェクトを実行した。ポスター作戦はその一環で、中学生が描いた「女の子たちへの反撃のすすめ」だ。 ちょうどその頃、買春禁止法(1998)や子どもポルノ禁止法改正(1999)をめぐって、国会では賛否両論の論戦が火を噴いていた。 中高生たちは、学校内でセクハラにあって怒っていた。「売女」と呼ばれた女の子は、「女性を金で買えるモノと見て、使い終わったら捨てていいと言っているのだ」と憤激した。 1999年 10 月、ストックホルムのオーセ( Åsö )地区でデモが始まって、スウェーデン中に広がった。「売女と呼ぶな」の真っ赤な大旗を持って中高生が行進するさまは、今でもネットで見ることができる。スローガン「売女と呼ぶな」は、そのまま運動体の名前になった。 デモ行進だけではない。セクハラ退治ハンドブックを作成した。あちこちの学校を訪問しては全校生相手に討論会を企画した。さらには、学校で女生徒向け護身術クラスを新設すること、女性のシェルター予算を増やすことを要望書にして市議会に提出した。 中高生が学校内外で堂々と社会・政治運動に打ち込む様子を知って、日本の学校で教員だった私はキモをつぶした。   世界で最も表現の自由が保障されていると言われるスウェーデンだが、子どもポルノ禁止法は改正に次ぐ改正を重ねて、“表現の自由が保障する枠”の外に置かれることになった。保護対象は生身の子どもだけでなく、雑誌の中の写真、マンガ、アニメ、インターネット上の画像・動画、描画など「子ども一般の尊厳に関わる全て」が含まれる。 日本にも子どもポルノ禁止法はある。しかしそれは生身の子どもに限られている。そのせいか、ウェブ上の少女の性的画像の多くは日本発で、ウェブサイトの 73 %を占める(米 14 %、英3%)と

第98回 平等と多様性社会は選挙から(ノルウェー)

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  日本に住むウィシュマ・サンダマリは、2021年3月、名古屋出入国管理局の収容施設で人生を終えた。体に異変を感じ、診察や点滴を要求したのに無視された。屈辱の死だった。 ノルウェーに住むカムジ・グーナラトナムは、2021年3月、オスロ労働党の国会議員候補リストの2番に登載された。選挙は9月。当選は確実だ。 この2人の女性はともに 33 歳で、スリランカ生まれのスリランカ人だ。にもかかわらず、その境遇は天と地ほどに分かれた。 ウィシュマは、故国スリランカで英語教員資格を取った。日本で英語教師になることを夢見て来日。だが、同居していたスリランカ男性から暴力を受け、貯金まで巻き上げられて日本語学校の授業料が払えなくなって退学。在留資格を失い、不法滞在状態となった。 彼女は男性の暴力から逃れようと警察に駆け込んだ。ところが警察は、彼女をDV男から守るどころか、逮捕して名古屋の入管施設にぶち込んだ。死亡したのは、その半年余り後のことだった。 一方のカムジは3歳の時、内戦から逃れる両親ととともにノルウェーに移住。恥ずかしがり屋の小さな女の子だった。小学校では、白人の男の子から雪玉を投げつけられ、じっとこらえた。いじめは冬の数カ月間続いた。 高校生になって労働党青年部に入った彼女は、党幹部から誘われてオスロ県会選挙で初当選した。その後3選をはたし、 27 歳で首都オスロの副知事に就いた。この時わたしは彼女を取材した(旬報社『さよなら!一強政治』)。   今日のポスターは、おきまりの格好をした男性群を、多様な姿の人々が見つめている。若者、 レズビアンらしき女性、アジア系移民、車いすの人。ノルウェー語は「地方議会は住んでいる人たちを反映したものでなければなりません。女性にクロス(×印。ノルウェーは比例代表制選挙で、政党の決めた候補者リストの順番を有権者が×印を付けて変えられる)をつけよう。多様性のために投票しよう」。 市民団体の作品のようだが、作ったのは、「平等と反差別オンブッド」(前の男女平等オンブッド)である。「平等と反差別オンブッド」は、女性、難民、移民、同性愛者、障がい者などへの差別の撲滅をめざす公的機関。議会にそういう人たちの代表を増やそうと大キャンペーンをはった。2007年の統一選挙の時だ。 この時、オンブッドの呼びかけに応えた労働党が、女性で、若くて、肌の色の異なってい

第97回  この力こぶが目にはいらぬか!(ノルウェー)

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  力こぶを誇示する、カーリーヘアにツナギの少女。 スプレーで吹きつけたグラフィティは、「高い賃金を」「やりがいのある仕事を」「安全な職場を」「選べる仕事を」…さらに下段で、「男の仕事とされていた理数系、石油産業、コンピューター関係の仕事に入っていこうぜ」 ノルウェーの女性首相が閣僚の 40 %を女性にして世界を驚かせたのは1986年5月のことだった。その数年後、私はオスロの男女平等オンブッド事務所を訪問。そこで遭遇したのが、このポスターだった。男女平等オンブッドは言った。 「これは女子高生向けのプロジェクト『限界を突き破れ!』で作られました。結果は、大学の法学部や医学部の学生の 50 %が女性になりましたが、まだまだです。中学教育を変えないといけませんね」 当時、私は都立高の教員を辞めたばかり。日本の女子高生は、髪型や服装が厳しく決められていた。名簿は男が先で女が後だった。女子の進学先は4年生大学よりも短大が好まれ、就職先も事務職に限られていた。こんな「限界だらけ」の日本社会にうんざりしていた私は、国を挙げて男女平等を進めるノルウェーに感動した。 つい最近も『限界を突き破れ!』精神とおぼしき出来事があった。ビーチ・ハンドボールのヨーロッパ選手権大会でのこと。ノルウェー女子チームは、「女性用ユニフォームは不快です」とクレームをつけた。 規則はこうだ。「トップスは、胴部分をあらわにして、背中側の袖ぐりを中心に切り込んでいなければならない」「ボトムスは、脚の付け根に切り込んだ形のビキニ・パンティにし、側面の生地の幅は 10 センチを超えてはならない」 つまり、「女性は露出せよ」なのだ。ノルウェーチームは、男性と同じ短パンで出場すると申し出たが、主催側は「罰金(総額5万ユーロ、日本円で約650万円)を科す」と返答。ノルウェー側は「喜んで払う」と応じた。 ところが、初戦のハンガリー戦直前「失格」をほのめかされて、泣く泣くビキニ・パンティで戦った。しかし次のスペイン戦では短パンで出場。罰金を食らった。 これにノルウェーの文化・平等大臣(男女平等の責任者)アビド・ラジャが怒った。7月 21 日、彼はツイートした。「こっけい極まる! この古臭い親父クラブを変えるのにどれだけクソ努力をしなければならないのか! 平等の大切さを何もわかってない。最悪だ」 その文化・平等大臣が8月上旬、

第96回  コペルニクスは女だった?(ポーランド)

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ポーランドの首都はワルシャワだが、 16 世紀まではクラクフが首都だった。この古都はユネスコの世界遺産第1号である。 2019年3月のこと、クラクフ市役所前の美しい広場に、『クラクフは女性だ』と題された巨大なポスター5枚が掲げられていた。 女性の権利のために闘ったクラクフの歴史上の女性たちが、写真入りで解説されていた。ところが最終の5枚目には、世界の偉人中の偉人コペルニクスがこちらに向かってウィンクしているではないか(ポスター左下の円形写真)。 エーッ、なんだこれは! と驚いて解説を読むと、こう書いてあった。 「SF映画『セックスミッション』によれば、コペルニクスは女性だったとされています。コペルニクスは地動説を唱えた天文学者ですが、『彼女』はここクラクフを故郷とし、クラクフ大学で学びました」 私はクラクフ市役所に直行した。担当職員ユスティナが現れた。 「あなたのような反応があると、とてもうれしいです。女性の問題は、このように奇抜なアイデアをこらさないと、歴史に埋もれてしまいます。『クラクフは女性だ』のポスターは、昨年、女性参政権獲得100周年を迎えた我が国を祝って、市長が音頭取りしました。企画したのは私たち2人、市長付職員です。故郷の英雄コペルニクスは、目をとめていただくために考えつきました。彼、いや『彼女』(大笑い)の写真はトリンの大聖堂にある画像を、特別な許可を得て左目がウィンクしているように加工したのです」 ポスターのサイズは大きくて、コペルニクスが通行人に挨拶するかのようにできている。世界中からクラクフにやってくる観光客も、当然足をとめる。 聞けば、SF映画『セックスミッション』 ( 1984 ) は、共産主義時代のポーランドを風刺したコメディで、上映 1 年間で観客数が100万人を突破。数年後に公開されたロシアでは4000万人が見たという。伝説的な映画なのだ。 男2人が目覚めたら、そこは女ばかりの帝国。男性は絶滅したはずなのだが、2人は何かの拍子で生き延びてしまった。査問にかけられて「コペルニクスは男ではないのか」と叫ぶと、帝国の幹部女性が「それは間違いです。コペルニクスは女です」と断じ、彼等を断罪する。 「共産主義こそ真の革新。労働者に繁栄と解放をもたらす」と、共産主義政権は国民に断じて、異論を許さなかった。ポーランドの人々は、映画に同じような嘘と教条

第95回  男たちよ、育児もあなたの仕事だ(オランダ)

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「この胸毛の男のポスター、気持ち悪いのよ、ワーッハハハ。どう思う、あなた?」 「オランダ女性の利益」のリーダ・ナロップさんは、縦170㌢以上、横100㌢以上のド迫力ポスターを広げながら笑い転げた。 パパの育児を促すキャンペーン用で、ユトレヒト市男女平等局から資金が出た。ユトレヒト駅の広告塔にあわせると、こんな大きさになるのだという。 「オランダ女性の利益」は100年以上の歴史を持つ民間女性運動団体だ。オフィスは、ユトレヒト駅から徒歩 15 分のところにあった。訪問したのは4半世紀前の1994年。 北欧ノルウェーでは、政府を批判する市民団体にも公費補助されると知って驚いたが、オランダも同じだった。「オランダ女性の利益」には自治省から日本円で年約900万円が出ていた。『女性議員を 35 %に』と描いたゼッケンをつけた女性たちが大勢ワーッと電車に乗り込むゲリラ選挙戦も話題を呼んだ。 それで、オランダ男性の育児休業取得は進んだのか。 実は最新調査では、オランダ男性のわずか 11 %しか育休を取っていない。7%の日本男性よりはずっとマシだが、ノルウェーの 90 %とは雲泥の差。国際調査で「子どもの幸福度世界一」のオランダなのに育休のこの低さ! なぜか?  カギは、一般的に労働時間が短いことのほか、労働者に「正規」対「非正規」の格差がない点にありそうだ。 オランダの平均労働時間は週 38 時間。残業も非常に少なく、毎日子どもと夕食をとれる家庭がほとんどだ。労働時間差別禁⽌法 (1996)が、 パートタイムとフルタイムの待遇格差を厳しく禁じており、有給休暇は週の労働日数の4倍と規定されている。週5日なら 20 日、4日なら 16 日、3日なら 12 日 … となる。 問題の育休も、有休と同じ原理だ。こちらは週の労働日数の 26 倍と定められていて、週5日だろうが3日だろうが、それぞれの労働時間に比例して育休が取れる。 あまり父親が取らないのは、この厚い労働条件のおかげで日ごろから家庭で過ごせる時間が多いことと、母親の負担がそれほど重くない、ということのようだ。 労働時間差別禁止法のない日本の非正規労働者は、正規労働者が持つ権利を持っていない。同じ職場で同じ仕事をしていても、正規なら育休を1年取れるのに、非正規は「雇用を更新されないと困るので、妊娠は避けています」となる。 今、国会

第94回  「性解放」の文化に痛列な一撃!(フランス)

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  この4月、フランス国会で、 15 歳未満との性交は理由の如何を問わず「強姦」とされる刑法改正法が成立した。刑罰は最高 20 年の禁錮刑だ。近親姦に関しては「 18 歳未満」とされた。しかし例外もあって、2人の歳の差が5歳以下の場合のみ刑から外される。これは「ロメオとジュリエット条項」というのだそうだ。 フランス刑法は、子どもとの性交を禁じてきた。しかし、「子どもも意思表示できる」とされ、強制・脅迫・偽計によって性交させられたことを子どもの側が証明しなければならず、起訴が非常に難しかった。 国会は、性交同意年齢引き上げを長年議論してきたが、結論は出なかった。それがなぜ、先月、全会一致に至ったのか。 フランスには、女性の「産む産まないを決める権利」を求めて 60 年以上も闘ってきた団体があり、その「フランス家族計画運動」のポスターがこれだ。 「世界中の女たちすべてに、教育と健康、なによりも危険のない出産を」とうたう。全国に 40 のクリニックを持ち、相談者は年 35 万人以上。強姦やFGM(性器切除)などによるトラウマから、避妊や妊娠中絶の手続きまで、性に関わるありとあらゆる問題が持ち込まれる。 移民女性には特に頼られ、ポスターの3人がアフリカ系なのも、それを物語っている。 加えて、今回の改正を確実にしたのは、エリート文化人たちの蛮行が次々に露呈したことだった。 昨年 1 月、編集者ヴァネッサ・スプリンゴラは『同意』という自伝本を出し、 14 歳の時、 50 歳の男性から 1 年半にわたって性被害を受けたことを告白した。男性は流行作家ガブリエル・マツーネフ。彼女との関係を利用した著作は高く評価された。芸術文化勲章(1995)、文学賞(2013)をとり、年8000ユーロの文学者手当まで受けている。 さらに今年 1 月、大学教授で弁護士のカミーユ・クシュネルが自伝『大家族』で、義父(実母の再婚相手)が 13 歳だった彼女の弟に性的虐待を加えていたことを暴露した。義父はオリビエ・デュアメルという元欧州議会議員の憲法学者。マスコミに頻繁に登場する左派知識人だ。 これらの告白本をきっかけに、市民の怒りが大爆発。女性団体は、パリ中の壁という壁に、性被害女性の名前をポスターにして貼りまくるゲリラ戦術を展開した。 カソリックに根ざした性的抑圧からの解放が叫ばれた 60 年~ 70

第93回  女性が選挙権を得て106年(デンマーク)

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  4月 10 日は歴史的な日だ。戦後すぐの1946年のこの日、日本女性は初めて投票所に足を運んだ。その衆議院議員選挙で、全国から 79 人の女性が立候補し、 39 人が当選した。割合にして8・4%だ。ところが、2021年現在、いまだに女性は9・9%にすぎない。 デンマークの女性が初めて投票所に足を運んだのは1918年だった。立候補した女性 41 人中、当選したのはわずか4人、2・9%。だが100年以上経った今、女性は 40 %! 首相も女性だ。 女性が1人、暗い家の扉を開けて草原を見つめる。ミッテ・クヌートセン監督のドキュメンタリー映画「自由 平等 参政権」(1990)のポスターは、夜明けを迎えつつあるデンマーク女性を描いている。 映画公開から 10 余年経た2002年、私は憧れのフェミニスト監督ミッテに会うためコペンハーゲンの自宅を訪ねた。そのとき頂戴したのがこのポスターだ。先日、偶然ネットでこの映画を観た。 女性に参政権を与える法案が初めて国会に出されたのは1886年 11 月。提案者は平和主義者で知られるフレデリック・バイヤー議員で、後にノーベル平和賞を受賞した。妻のマチルダ・バイヤーは女性解放運動家だった。2人は1871年、女性の権利を求めるデンマーク初の運動体「デンマーク女性ソサイエティ」を創設。会の定期刊行物『女性と社会』は世界最古の女性誌と言われる。 旧来の法文には「女性、子ども、犯罪者は選挙権がない」という表現があった。その文面から女性を削除したのが新法案だったが、「女性は夫を通して政治に参加できる」という意見が大勢を占め、反対多数で否決された。 1887年2回目も否決。1890年3回目。1891年4回目。1893年5回目。1895年6回目。1897年7回目。1903年8回目。1905年9回目。1906年 10 回目。1907年 11 回目。1908年 12 回目。1912年 13 回目。1913年 14 回目。その度、議長が「否決」と木槌を振り下ろす。しかし、ついに1915年、 15 回目にして賛成多数で可決成立。ここまで 29 年かかった。 その間、女性参政権を揶揄する風刺画が出回った。例えば、男性を足蹴にして倒そうとするこわもての女性が描かれ、「私かあなたか、家の主人はどっちだ」と。こうした非難や嘲笑をよそに、女性たちは数々の新組織を創設して

第92回  女のからだは政府のものではない(ポーランド)

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  2019年3月、ワルシャワの「女性の権利センター」を訪れた時、ウシュラ・ノバコウスカ館長から「私たちセンターのものではありませんが、女性の大規模なデモのポスターです」と寄贈された。 シンプルだが強烈な印象を与える女性の顔。上部には「もう、うんざり! 女性蔑視や女性への暴力」。下は「デモだ。女のゼネストだ。2016年 10 月 23 日 15 時、ポーランド共和国下院前に集まれ」。 ポスターは2016年9月、ポーランド国会で妊娠中絶を禁止する法案の審議が始まることに怒った女性たちによって作成された。法案に抗議して、ワルシャワやクラクフなど全国約150の町で黒装束の女たちが広場へと繰り出した。その数 15 万人! 「女を激怒させるな!」「女の地獄は続く」「産む産まないを選ぶ権利は私にある」。その圧倒的数に屈したのか、国会は、法案を賛成 58 、反対352、棄権 18 で取り下げた。女性たちが勝利したかに見えた。 ところが2019年秋、選挙で右派政党「法と正義」が単独過半数を取ると、憲法最高裁に右派判事が任命されて右派が多数派になった。 「法と正義」は、憲法最高裁に判断を任せる戦術に出た。憲法最高裁は、コロナ禍のさなかの2020年 10 月、「胎児に重い障害がある場合の妊娠中絶を許す現行法は違憲」とした。抗議のデモは、ポーランドを超えてヨーロッパ各地に飛び火し、 40 万人を超えた。 ポーランドはカソリックの強い国だ。公表される妊娠中絶件数は年1000件程度と、ヨーロッパ諸国の中で極めて低い。ところが実際は、その150倍以上の女性が国外に出かけて手術している、と女性団体はいう。 憲法最高裁判決から数ケ月後の2021年1月 27 日、ほぼ全ての人工妊娠中絶を禁止する法律が施行された。今後、ポーランド女性は、強姦や母体の命に危険がある場合以外は妊娠中絶が不可能となった。 友人スワヴォーミラ・ヴァルチェフスカ(歴史学者)から聞いたのだが、ポーランドは大国に挟まれた辛苦続きの小国だ。とくに、第二次大戦中のナチスドイツによる大虐殺は記憶に新しい。そんな歴史ゆえに、「耐えに耐えて最後まで愚痴を言わないのがポーランド人」といわれているのだという。 だが、そんなポーランド女性たちも、耐えがたい事態に直面して爆発した。昨年暮れから今年に入っても、ポーランド全土で繰り広げられる抗議デモの

第91回  男性議員と女性議員、多くてもダメ少なくてもダメ(フランス)

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フランスの市民運動団体「 Elles aussi 」(彼女たちも)は2021年の年頭、こう呼びかけた。 「明日、女性に公平な場を! 2020年のコロナパンデミックは、女性がいかに社会的に弱い立場に置かれているかを知らしめた。女性たちは、低賃金・非正規で治療・予防に必要不可欠な職の最前線にいる。2020年は女性が地方議会にほんの少し増えた年でもあった。私たちはこれに満足しない。女性の市長が全体のわずか 21 %ではダメだ。 30 %にしよう」 2020年、フランスは統一地方選だった。フランスの地方の選挙制度は地方によって異なるが、大体は比例代表制による2回投票制だ。1回目で過半数を取った政党がない場合(大体がそうだ)、もう1回投票する。市長選はなく、多数派政党の候補者リストの1番上に載った人が市長になる。 コロナ禍で、2回目の投票日は3月から3カ月も延期された。全国各地で緑の党が大躍進し、女性市長も女性議員も増えた。 パリでは、緑の党と組んだ社会党の候補者リストでトップに載ったアンヌ・イダルゴが市長に再選。2014年、初めて市長となった彼女は2歳の時、フランコの弾圧を逃れた両親に連れられて亡命したスペイン系移民だ。最初の夫との間に2人、2番目の夫との間に1人の子を持つ母親でもある。こういう女性が当選できるのも比例代表制だからこそだ。 2020年の統一地方選で「 Elles aussi 」は「今日の女性市民は明日の市長です」というスローガンを掲げた。パリテ法(男女半々法)から 20 年も経ったのに、1000人以下の小さな自治体はパリテの風が吹かないので業を煮やしたのだ。 今回のポスターは、この「 Elles aussi 」が、パリテ法制定後すぐの2002年、作ったものだ。 青で書かれた言葉を和訳すると、左上から、「市町村議員、県会議員、地方圏議会議員、国民議会議員、元老院議員、大統領」。すべて男性名詞だ。よく見ると、一つひとつの語の後ろに、赤の手書きで女性名詞のための接尾語がつけ足されている。そして、中央部の太字が叫んでいる。それが今回のタイトルだ。 「 Elles aussi 」は、6つの女性運動団体が1992年に連帯して立ち上げた。フランス政府とEUが補助金を出した。当時のスローガンは「国会も地方議会も女性を半分にしよう」。パリテ法に先鞭をつけた。 ひるがえって日本

第90回  世界初のフェミニスト政権(スウェーデン)

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  スウェーデンの男女平等政策が世界のトップを走っていることを疑う人はいない。 特に今から 4 年前の 2016 年のこと、ロベーン首相(北欧 5 カ国で唯一の男性首相)が「私たちは世界初のフェミニスト政府です」とぶち上げたのには、私も目を丸くした。首相はさらに「男女平等は社会変革へのカギです」「男女平等達成のための政策を実行し、あらゆる政策に男女平等の視点を入れます」と宣言した。 実際、国会や内閣はむろん、審議会、委員会、すべての公的組織の構成員がほぼ男女半々となった。地方自治体の首長や管理職の女性の平均賃金が初めて男性を上回った。男女平等大臣は語った。 「 1980 年代から 30 年以上も公的委員会や審議会などにおける構成員の男女平等を進めてきて、やっと実を結んだのです」 その 1980 年代、日本の都議会に当たるストックホルム県議会は「あらゆる仕事に男も女も入っていこう」と呼びかけた。そのとき使われたのが今日のポスターだ。 ピンク地に切り絵をはりつけてある。切り絵は日本や中国だけでなく、北欧でも長い伝統があり、クリスマスツリーや窓の飾りによく使われる。 黄色い三角形は、スウェーデン人の大好きなアイスクリームのコーンのようだ。「ミックス( blandat )が最高!」と叫んでいる。 ここで重要なのは、男女が 3 人ずつ入り混じっていること。しかも、ヘアスタイルや目の形が異なるさまざまな人種。「すべての仕事に女も男も」「ストックホルム県議会 男女平等に向かって」とある。 この後、 90 年代に入ると、スウェーデンは 10 人以上の企業主に男女平等促進行動計画と男女賃金格差調査の提出を義務づけた。男女平等オンブズマンがお目付け役となった。 さて日本。このポスターを作られたころの 80 年代、男女雇用機会均等法ができた。名前は大層立派だが、日本女性はパートや派遣という非正規労働に押し込まれた。 2020 年 4 月の統計を見ると、その非正規労働者が昨年より 97 万人減った。だが「非正規が減った」と喜ぶのは早い。クビを切られたのだ。その 7 割以上は女性だった。新型コロナウイルスの影響と見られていて、その深刻度は、今さらに進んでいる。  2021年1月1日

第89回 ベリット・オースに〝草の根ノーベル平和賞〟(ノルウェー)

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  今年の「人民の平和賞」はノルウェーのベリット・オース(1928年生)に決まった。 この賞は、ノーベル平和賞に対抗した草の根のノーベル平和賞で、スウェーデンのオルストにある平和運動団体が運営する。受賞式は 12 月5日だったが、新型コロナの影響で来年3月6日に延期された。 女性運動家、政治家、平和運動家、社会心理学者、オスロ大学名誉教授。ベリット・オースには、「初の…」が、数えきれないほどついてまわる。 1971年のノルウェー地方選で、オスロ、アスケール、トロンハイム3市は、ノルウェー史上初めて(おそらく世界初)女性議員が男性を上回る議会となった。「男を消せ」キャンペーンの結果だった。 ノルウェーは国会も地方議会も比例代表制選挙。投票用紙には政党が決めた「候補者リスト」が記されているのだが、投票者は名簿の順番を変えることができる。 60 年代まで、どの政党も「候補者リスト」の当選圏(つまり上の方)は男性、下位は女性と決まっていた。彼女は、上位の男性の名前を消して下位の女性を上にあげて当選させるという運動を展開した。 1973年、ベリットは創設に加わった左派社会党の初代党首に。ノルウェー初の女性党首は、クオータ制を政党として初めて取り入れ、選挙で大躍進。他党の模範になった。 73 年から 77 年まで国会議員に。ここで自らの屈辱体験を元に、男性による女性支配構造を「5つの抑圧テクニック」と題して世に出した。社会心理学者の面目躍如。その冊子は北欧中心に世界に広まった。アイスランドの「女のゼネスト」は、この冊子が火種となって燃え上がったのだそうだ。 さらには、アメリカの国際女性の平和ストライキにならってノルウェー平和キャンペーンを設立し、ノルウェー政府の「軍縮委員会」の創設につなげた。スウェーデン、デンマークの市民団体とともに、ノルウェー女性の平和運動を組織化。「人民の平和賞」受賞は、この活動が評価されたのだろう。 私はポケットマネーをはたいて2003年、彼女を日本に招待した。豊中市、名古屋市、武生市(現越前市)、高知市で講演。その全訳「支配者が使う五つの手口」は拙著『ノルウェーを変えた髭のノラ』(明石書店)で読める。 今日のポスターは、ベリットたちが開校した「フェミニスト大学」(ヘードマルク県ローテンで1983年)の宣伝に使われた。 92 歳の闘女にスコール(乾杯)!

第88回  ペンは力なり (ノルウェー)

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  羽根ペンがヒラヒラと揺れ動き、シルエットの女性の口もとからは歌が流れてきそうなポスターだ。IT時代の今日なら動画になって一瞬で世界に流れるのだろうが、これは1986年のことだった。メスマークのピアスが象徴的な「国際フェミニスト・ブックフェア」は、同年6月 21 日から1週間にわたってノルウェーのオスロを中心に展開された。 2年前の1984年6月、イギリスで世界初の国際フェミニスト・ブックフェアが開かれた。会場となったロンドンのコヴェント・ガーデン周辺には、 22 カ国100以上の出版社によってフェミニスト関連の出版物のスタンドが所狭しと立ち並んだ。わずか2日間だったが、参加者が世界から駆けつけて、大成功だった。 熱気と興奮の中、次の候補地としてノルウェーが決まった。1960年代に女性解放運動に火がついた国。 81 年にはグロ・H・ブルントラント( 42 歳)が初の女性の首相に就任した国。ノルウェーには、女性たちのやる気が横溢していた。 オスロのブックフェアでは、多彩なイベントが企画された。展覧会、即売会、ワークショップ、討論会、セミナー、読書会、コンサート、演劇、映画、音楽…。一般読者に加え、作家、翻訳家、出版社、編集者、ジャーナリスト、批評家、印刷業界、デザイナー、販売、司書…と本に関する叡智が集結した。 最も人々の心を打ったセッションは、スペイン、ケニア、南アフリカ、北アイルランド、ウルグアイから作家を招いてのセミナー「作家という危険な職業」だったと記録にある。もの書きの女性が逮捕監禁されたり、村八分にあったことが報告された。リベラルといわれている国でさえも、マイノリティの女性は、著作活動そのものも、著作で聴衆を集めることも、極めて困難だったことが明らかになった。 それでも、古今東西、女性たちは迫害をかいくぐって書き続けた。ものを書くことによって、自らが置かれた第2の性(男中心社会で主体性を奪われた存在である女性)、貧困、抑圧などをはねのけようとした。書くことは生存に欠かせない行為、女性解放への闘いそのものだった。 ブックフェアはノルウェーの後、カナダのモントリオール(1988)、スペインのバルセロナ(1990)、オランダのアムステルダム(1992)、オーストラリアのメルボルン(1994)と続いた。 そういえば、 10 月 27 日から 11 月9日まで読書