第8回 レジスタンスに命をかけた女たち(オーストリア)
ウィーン市女性局は、まるで宮殿のような建物の一角にあった。高い天井の部屋で私を迎えた職員は「ええ、この建物、ウィーンの街並み、どれも私たちの誇りです」と言った。
「女性局は1992年5月に誕生しました。今や、職員は9人から30人に増え、予算も3倍です。夫の暴力を受けた女性のホットラインを24時間対応にするなど、女性政策は充実してきています」。
訪れたのは2003年2月。女性局創設10周年記念の年だった。「女性を目立たせよう」というキャッチフレーズのもと、様々なプロジェクトが進められていた。そのひとつが、ポスター「ウイーンのレジスタンス闘士たち」だ。
1938年、オーストリアはヒトラーのドイツに併合された。ヒトラーは、ユダヤ人はもちろん、共産主義者、社会民主主義者、自由主義者、女性解放運動家を次々に逮捕した。
戦後、レジスタンス運動の掘り起こしが始まり、無数の本や映画が世に現れた。しかし女性といえば、レジスタンス闘士の男を陰で支えた妻、母、娘役ばかり。
そこで女性局は「女性を目立たせよう」運動の一環として、レジスタンスのウィーン女性たちを世に出す企画をたてた。何種類ものポスターが作られた。女性局職員は、その1枚を指さしてこう説明した。
「当時の女たちの、差別や不正を許さない不屈の魂は、現代の女の子たちを勇気づけます。女たちよ、社会変革に立ち上がろう、と鼓舞します。勇気は男性の専売特許ではありません」。
黒枠に女性たちの顔が掲げられている。何十人かに見えるが、よく見ると5人の顔が繰り返し使われている。最下段の5枚の写真にそって、左から右へ紹介しよう。
ヘレーネ・カフカ
(1894~1943)
チェコ生まれ。靴屋の6番目の娘。2歳で家族とウィーンに移住。キリスト教徒の看護師だった彼女は、ナチスドイツに反対を唱えた。勤務先の病院の全病室に掲げられていた十字架の撤去を命じられたが、応じなかった。ヒトラーを風刺する詩を書いて、ヒトラーに心酔する医師を激怒させた。1942年2月、ゲシュタポに逮捕された。翌3月、国家反逆罪でギロチンの露と消えた。享年48歳。
ローザ・ヨホマン
(1901~1994)
貧しい移民家庭に生まれ、15歳から菓子工場で働いた。組合運動に従事し1933年、社会民主党最年少幹部に。1935年、非合法刊行物を配布した罪で1年の強制労働。1939年8月の大戦勃発直前、ゲシュタポに逮捕され、翌年、ドイツ北部のラーベンスブリュック強制収容所に送還。1943年「囚人たちへの食糧配給を組織化した罪」で厳罰部屋にぶちこまれた。解放後、帰国して国会議員に。
ガブリエル・プロフト
(1879~1971)
貧しい靴屋の7人の子どもの1人。ウィーンでメイドをしながら労働組合運動に加わり、雄弁家として名をはせた。1901年、社会党の全国女性連合の書記長に。1918年ウィーン市議会議員、1919年国会議員に選出され、女性の権利獲得に活躍した。1934年逮捕。刑期を終えて釈放された後、「革命社会主義者」に加わり、1944年に再逮捕。解放されるまで、マリアランツ村強制収容所にいた。戦後は国際社会主義連盟の再生に尽力。
ヘレーネ・ポテツ
(1902~1987)
ウイーンの労働者階級地区生まれ。1919年、社会民主党に加入して党の労働者学校で活動。靴底に隠していた労働者新聞が見つかり、逮捕・拘留。釈放後は常に当局の監視下に。1937年再逮捕。1939年、3度目の逮捕でラーベンスブリュック強制収容所送り。解放後、1945年の選挙で、ウィーン市議会議員に当選。その間、Die Frau誌編集局に勤務。1949年から1959年までウィーン市議会議長、1959年、女性初の国会議長に選出。
ステファニー・クンケ
(1908~1943)
教員で詩人。非合法だった社会党の中央委員会に勤務。子どもの本や詩集を出版。1938年、「革命社会主義者」青年活動の罪で夫とともに逮捕される。彼女はラーベンスブリュック強制収容所に送還された後、さらにアウシュビッツに送られ虐殺される。享年35歳。
2013年7月10日
コメント
コメントを投稿